第111話 小さな放浪者

 明奈はあんずを伴って、南条の部屋をおとずれた。


 三日程前、ひどい雨の降った翌朝、夜勤から戻った父はあんずを連れていた。どうしたのとたずねた明奈の向かって、父は知人から預かったとだけ告げて、そのまま布団に潜り込んで眠ってしまった。


 十歳くらいだろうか。浅黒い肌をした、目の大きな可愛い女の子だった。全身ずぶ濡れで、素足のままだ。知人から預かったというよりは、雨に濡れていた捨て猫を拾ってきたというほうが正しいように思えた。


 とりあえず風呂をかして少女の体を暖め、自分も裸になって風呂に入り、少女の全身を洗ってやった。少女は終始無言しゅうしむごんのまま、明奈にその身を任せていた。


 風呂から上がり、紅茶とビスケットを出すと、少女は貪るように喰らい尽くし、首をかしげて明奈の様子をうかがっていた。明奈が自分の分の紅茶とビスケットを差し出すと、明奈とビスケットを交互に見つめていたが、明奈がうなずくと、今度はゆっくりと味わうようにビスケットをかじり、紅茶をすすった。


 見たところ日本人には見えないが、明奈は日本語で少女に名前を訊ねてみた。


「あんずよー」


 ぶっきらぼうに少女が答える。違和感を感じて再度訊ねると、少女は明奈の目を見つめながら、ゆっくりと声を上げた。


「アン・ズヨー。名前」


 日本語のあんずではなく、アン・ズヨーという名なのだろう。とりあえず、日本語での意思の疎通そつうは図れるようなので安心した。


 空腹が満たされたせいで眠くなったのか、あんずは大きなあくびをし、襖を開けて隣室で寝ている父の布団に潜り込んだ。


 眠っている父の背に自分の小さな背をくっつけて身をかがめると、あんずは規則正しい寝息を立てて眠ってしまった。娘の自分が言うのも可笑おかしな話だが、はたで見ていると親子のように見える。


 身支度みじたくをして登校し、昼過ぎに帰宅した。父もあんずも目を覚ましていて、二人でテレビを見ていた。見ていたのは八十年代の古い映画で、命を吹き込まれたマネキン人形とデパートの店員が恋に落ちるコメディだった。二人そろって真剣に見ていたが、表情はピクリとも動かない。自分よりずっと父に似ているとような気がして、明奈は思わず笑ってしまった。


「警察には行きたくないといってる」


 夕餉ゆうげのテーブルで、父は明奈に打ち明けた。知人の子供というのは嘘で、本当は明け方にコンビニの駐車場で見つけて連れて帰ってきたらしい。


「誰かが捜しているかもしれないよ。ご両親とか」


 もしそうなら大変なことになる。下手をしたら誘拐ゆうかいだ。


「嫌なのです」


 スプーンでご飯をすくいながらあんずが答えた。イントネーションは少し変だが、はっきりとした日本語だ。


「あんずは悪い人にさらわれてきたのです。だからダメなのです」


 だったら尚更なおさら警察だろうと思う。


「知らないお母さんが来るのです。あんずのお母さんだって嘘をくのです」


 以前逃げ出したとき警察に保護してもらったのだが、母親を名乗る赤の他人が現れ、連れ戻されてしまったという。


 それでも警察に届けるべきだと明奈は思う。事情を話し、迎えにくるのが実の親かどうか確認してくれと念を押しておけば、そうそう簡単には他人に子供を渡すわけがない。


「おそらく捜索願を出してるんだろうな。きちんと整った書類を持つ自称母親が、目に涙浮かべてむかえにくるんだろう。うちの娘には虚言癖きょげんへきがあるとか言われた日にゃ、警察も渡さないわけにはいかない」


 多くは語らないが、父は元やくざだ。明奈が物心ついた頃には完全に足を洗っていたらしいが、背中には派手な入れ墨がある。裏の世界については多少の知識を持ち合わせているのかもしれない。


 だからといって身寄りのない少女をいつまでも住まわせていることもできない。それに、あんずを捜しているという悪い人がいつ現れるか知れたものではない。


「なにか方法を考える。それまでは、そうだな。腹違いの妹ってことにしといてくれ」


 そういうと父は、夜の仕事に出かけてしまった。

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