第165話 一日の終わり
手錠を掛けられた南条は抵抗する様子もなく、奈緒に向けての非難を口にすることもなかった。ほんの一瞬、
黒煙を巻き上げて燃え上がるトレーラーを、駆け付けた消防隊が
警察署の職員用休憩室に案内され、奈緒はただ
無視していた本部からの電話に応え、休憩室を出たのは日付が変わるころだった。
所轄の担当者と連絡先を交換し、署の玄関に向かったところで、一般外来用のロビーに座っている明奈と父親の刑部博一に出くわした。
奈緒の姿を見かけると、椅子から立ち上がった明奈が駆け寄ってきた。
頬でも叩かれるかもしれないと身構えると、明奈は奈緒の手を取って笑いかけてきた。
「奈緒さん」
どういうことだろう。あんずという少女を救いに行くという南条の行動を、奈緒は騙し討ちに近い形で制止したのだ。
「ずっと待ってたの?ここで」
父親の刑部博一もこの警察署に護送され、事情聴取を受けていたのだろう。犯人に撃たれ重傷といわれていたが、その後どこにも怪我を負ってはいないとう報告が入っている。
「はい。みんな無事だったんで、奈緒さんに会えるかもしれないって思ってここで待ってました」
「わたしを?どうして?」
「お礼を言いたくて。あの、あのとき、南条さんを止めてくれて、ありがとうございました」
嫌味を言われているのかもしれないと思い、明奈から距離を取った。
「もしあのとき南条さんを止めてくれなければ、お巡りさんは南条さんを撃ったかもしれない。南条さんのことだから大丈夫なのかもしれないけど、それでもわたし、想像するだけで怖くなって」
うそのように笑顔が消え、明奈の体は小刻みに震え始めていた。この臆病な少女が、無数の銃口に晒されるという危険を犯してまで南条を庇っている。目の前で震えるこの少女のどこに、そんな勇気があったのだろう。
「仕事よ。感謝されるこどじゃないわ」
あえて感情を排除して答えた。今でこそ感謝されているが、南条の
「彼の取り調べが終わるにはまだまだ時間がかかるでしょうから、今日はもう帰ったほうがいい」
「えっ?南条さんなら、もう出てきてますよ」
思わず明奈の顔を見つめた。曽根儀は警察庁の
「今、トイレいってます。あっ、来ました」
振り返ると、ハンカチで手を拭いながらトイレから出てくる南条と目が合った。
「あっ、えっ?なんで?あ、あの」
パニックに襲われた。自分が逮捕した被疑者に不意に出くわしたのだから驚いて当然だが、騙し討ちのように手錠を掛けた気まずさが上回っていた。
「川窪さんも一緒だったか。ちょうどいい」
そういって南条は、依然と変わらない笑顔を浮かべた。
「ちょうどいいって、何が?」
「南条さん特売の牛肉をたくさん買ったらしいんです。それで、これからおうちにお邪魔してみんなですき焼きを食べようってことになって」
「すき焼き?こんな時間に?」
言ってはみたが、意識した
「安かったので買いすぎた。三人では食べきれないだろうから、川窪さんが来てくれるととても助かる。もっとも、隣に迷惑を掛けたくないから、アルコールは無しだ。できるだけ静かに食べてほしい」
何を言ってるのだろう。仮にも自分を逮捕した警官を前にして、自宅で一緒にすき焼きを食べようなどと提案できるものなのだろうか?
「お、怒ってない?」
言ってしまってから失言だったと気づいた。これではまるで、いたずらを先生に告げ口したクラスの女子みたいだ。
「きみの信念に基づいた行動だったのだろう。考えが一致しなかったのは残念だが、それは仕方のないことだ」
「でも、その、あんずちゃんって女の子に万一のことがあったら、わたしは」
「心配はいらないだろう。彼とすれ違い確信した。彼は邪悪な存在ではない。そしておそらく、彼はわたしよりも強い」
彼とは闇の勇者のことだろう。そして光の勇者は、闇の勇者の力を信じてすべてを彼に任せたのだ。
「話はその辺で終わりにしてよ、さっさと行こうぜ。すき焼き喰いによ」
あくび混じりに刑部が声を上げた。トレーラーから救出されたときには死人同然に見えたが、今は別人のように肌つやがいい。
「だったらわたしの車で」
言いかけて気がついた。奈緒の覆面パトは現場に置き去りにされたままだ。
「心配ねぇ。この時間ならいくらでも仲間がいるかよ。いい稼ぎになるって喜んで迎えに来てくれるぜ」
刑部はタクシーの運転手だ。この時間に仕事をしている仲間はたくさんいるだろう。
「お誘いはうれしいんだけど、わたしはまだ仕事があるから」
言いかけた奈緒の肩に南条の指先がそっと触れた。
「食べて眠る。人はそうやって生きている。あまりいい一日ではなかったが、最後くらいは気の合う仲間たちと食事を共にしたい」
思わず
「よ~し決まりだ。どうせ安い肉なんだろうけど、腹減ってるからわかりゃしねぇさ」
「
「おい、まさかすき焼きにもやし入れる気じゃないよな。そんなすき焼き、おれは絶対に認めねぇからな」
喚く刑部を置いて、三人は玄関に向けて歩き始めた。
「おい、警察姉ちゃん、ちょっと頼みがあるんだけどよ」
振り返って刑部を見た。パイプ椅子に座ったまま、刑部は奈緒を見つめていた。
「いい加減この手錠を外してもらえねぇかな。椅子に座ったままじゃ、タクシーにも乗れねぇからな」
椅子につながれたままの手錠をかざして、刑部が情けない声を上げた。あまりに違和感がなさ過ぎて、いまだに椅子とつながれていたことを忘れてしまっていた。もっとも、刑部と椅子を繋いでいるのは警察の手錠ではないから、開錠できるかどうかはわからない。
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