第102話 逃亡
学習塾が終わると、明奈は南条の部屋に向かった。
部屋の前に着くと、隣室の松本伊代子が明奈に気づき、南条はまだ帰ってないから、帰ってくるまで待っているようにと自室に上げてくれた。
だが、十時を過ぎても南条は戻らなかった。伊代子からやんわりと帰るようにと
年の離れた男性のアパートに遊びに行っているとは、父親には話していなかった。子どもの頃から、父ひとり、娘ひとりの二人三脚で生きてきたが、本当のことを話せば止めろと言われるような気がした。
南条は、部屋に明奈が来ると外に通じるドアを全開にしたままにしている。いらぬ
明奈が遊びに来ると、南条は明奈の為に安物の紅茶を淹れ、これといった話題もない明奈の話を、穏やかな表情でいつまでも聞いてくれた。明奈と南条では、世代どころか、認識する世界観まで異なっているにも
伊代子の問い掛けには、兄のように思っていると答えたが、恋をしているのだろうという自覚が
明奈は家に向かわず、赤羽駅へと足を向けた。ひょっとしたら南条は、新しい会社で歓迎会を開いてもらっていて、帰りが遅くなっているのかもしれない。会える可能性は低いだろうが、それでも駅の改札で南条の帰りを待ってみたかった。互いのスマホの情報は交換していたらから、すぐにでも連絡はつくが、思いつきでやって来た駅の改札で偶然出会えたなら、ちょっとだけ運命を感じられるような気がした。
金曜の夜だからか、駅前には人通りが多かった。
南条が自宅に帰るとしたら、埼玉寄りの北改札を抜け、バス乗り場の脇を抜けて行くはずだ。明奈は北改札口前の通路に立ち、改札を抜けて来る乗降客の中から、南条の姿を捜した。
埼京線の電車が到着するたびに、スーツ姿の通勤客が改札を抜けて行く。背の高い南条だから、改札口の前に姿を現せば、明奈は必ず南条を見つける自信があった。
ニ十分ほど経過したころ、改札の向こうに南条の姿を見つけた。一般の男性より頭ひとつ高い南条の姿は、どうしても目立ってしまう。
明奈の顔に笑顔が広がった。あくまで偶然を
南条の視線が明奈を捉えている。明奈は南条に向けて手を振ろうと右手を動かした。南条は何故かスーツを着ていない。代わりに南条が身につけていたのは、Tシャツと短パンだった。
明奈の動きが停止した。あまりの衝撃に目が
南条が来ているTシャツには、アニメキャラが描かれていた。狐を
右手に黒革のカバン、左手に半透明のゴミ袋を提げ、黒の靴下、黒の革靴を履いた南条の姿は、駅の構内で完全に浮いていた。
「ムリ。絶対無理。ていうかやばい」
「やばっ。こっち来る」
明奈の顔ら血の気が引く。日曜のアニメでよく見る、ドン引きして顔に
思い起こしてみれば、南条には致命的にファッションセンスがない。初めて会ったときも、パジャマのズボンに袖を千切り取った
いくら異世界からの転生者であったとしても、いっぱしの大人なのだから、それなりに身なりにも気を使うべきだ。あの姿で光の勇者を名乗られても、絶対に関わりになりたくない。
百年の恋も冷めるという言葉がある。南条に抱いていた明奈の恋心は、一瞬にして凍りつき、粉々に砕け散って排水溝を流れ下水道へと吸い込まれて行った。
「逃げなきゃ」
パニックになりかけている自分を
赤羽駅の東口広場に出ると、あえて喫煙所の脇を通り、酒場の多い通りに向かった。服に煙草の臭いが付けば、南条の嗅覚を少しでもかく乱できるかもしれない。
夜の街を
スマホを取り出し、助けを呼ぼうとした。父はダメだ。仕事中だろうし、いらぬ心配をかけるわけにはいかない。友達に相談するのも気が引ける。親や教師に話されても面倒だった。
「奈緒さん。奈緒さんだったら」
数少ない南条と共通する知り合いだった。アニオタを毛嫌いしている奈緒だったら、きっと南条を叱りつけてくれる。気を落着けて考えてみれば、南条がすき好んであんな格好をしているはずはない。どうせ誰かに
奈緒ならきっと南条を
スマホを取り出した瞬間、スマホが振動した。叫びを上げ、スマホを土手の草の上に落としてしまった。拾い上げて画面を見ると、南条からのメッセージが映っていた。
赤羽駅で見かけたが、こんな時間にどうしたのですか?何かトラブルならすぐに向かいます。
南条からのメッセージはいつも硬い。簡潔で飾りのない言葉だけの、絵文字も無ければ添付された写真もないシンプルな構成だ。しばらく考え、明奈は自宅で勉強中で、赤羽駅には行ってないと嘘の返信をした。
安心しました。勉学は大切ですが、無理をせず、きちんと睡眠を取ってください。おやすみなさい。
南条からの返信を見て、明奈はようやく落ち着いた。南条にはこの世界の常識は通じない。考えてみれば、自分はそこに惹かれたのだ。
「光の勇者様はまだまだ育成途中で、レベル上げの途中なのかもしれませんね。おやすみなさい」
画面に向けて微笑むと、明奈はひとり家路についた。
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