第102話 逃亡

 学習塾が終わると、明奈は南条の部屋に向かった。


 部屋の前に着くと、隣室の松本伊代子が明奈に気づき、南条はまだ帰ってないから、帰ってくるまで待っているようにと自室に上げてくれた。


 だが、十時を過ぎても南条は戻らなかった。伊代子からやんわりと帰るようにとうながされた。南条の住むアパートから明奈の家までは十五分ほどだったが、心配して家まで送るという伊代子の申し出を断り、明奈は松本家を後にした。


 年の離れた男性のアパートに遊びに行っているとは、父親には話していなかった。子どもの頃から、父ひとり、娘ひとりの二人三脚で生きてきたが、本当のことを話せば止めろと言われるような気がした。


 南条は、部屋に明奈が来ると外に通じるドアを全開にしたままにしている。いらぬ気遣きづかいだったが、うれしい配慮でもあった。


 明奈が遊びに来ると、南条は明奈の為に安物の紅茶を淹れ、これといった話題もない明奈の話を、穏やかな表情でいつまでも聞いてくれた。明奈と南条では、世代どころか、認識する世界観まで異なっているにもかかわらず、南条の打つ相槌あいづちや、時々口にする意見、同意する際に見せる笑顔などの全てが心地よかった。


 伊代子の問い掛けには、兄のように思っていると答えたが、恋をしているのだろうという自覚が芽生めばえ始めている。安アパートに住む、異世界から転生してきた光の勇者を自称する七歳年上の男性。常識で考えるなら、在り得ないほどの地雷物件じらいぶっけんだ。


 


 明奈は家に向かわず、赤羽駅へと足を向けた。ひょっとしたら南条は、新しい会社で歓迎会を開いてもらっていて、帰りが遅くなっているのかもしれない。会える可能性は低いだろうが、それでも駅の改札で南条の帰りを待ってみたかった。互いのスマホの情報は交換していたらから、すぐにでも連絡はつくが、思いつきでやって来た駅の改札で偶然出会えたなら、ちょっとだけ運命を感じられるような気がした。


 金曜の夜だからか、駅前には人通りが多かった。


 南条が自宅に帰るとしたら、埼玉寄りの北改札を抜け、バス乗り場の脇を抜けて行くはずだ。明奈は北改札口前の通路に立ち、改札を抜けて来る乗降客の中から、南条の姿を捜した。


 埼京線の電車が到着するたびに、スーツ姿の通勤客が改札を抜けて行く。背の高い南条だから、改札口の前に姿を現せば、明奈は必ず南条を見つける自信があった。


 ニ十分ほど経過したころ、改札の向こうに南条の姿を見つけた。一般の男性より頭ひとつ高い南条の姿は、どうしても目立ってしまう。


 明奈の顔に笑顔が広がった。あくまで偶然をよそおって会いに来ているのだから、分かりやすい露骨ろこつな笑顔は見せたくなかったが、嬉しさの余り、自然に笑顔がこぼれ出てしまう。


 南条の視線が明奈を捉えている。明奈は南条に向けて手を振ろうと右手を動かした。南条は何故かスーツを着ていない。代わりに南条が身につけていたのは、Tシャツと短パンだった。


 明奈の動きが停止した。あまりの衝撃に目が釘付くぎづけになる。


 南条が来ているTシャツには、アニメキャラが描かれていた。狐を擬人化ぎじんかした半裸の女の子の絵で、短パンとセットになっているらしく、南条の股間にきつね耳の少女が顔をうずめていた。尻に当たる部分に生地はなく、ふたつに割れた南条の大胸筋が、少女の尻の割れ目に見えるように作られている。


 右手に黒革のカバン、左手に半透明のゴミ袋を提げ、黒の靴下、黒の革靴を履いた南条の姿は、駅の構内で完全に浮いていた。


「ムリ。絶対無理。ていうかやばい」


 微笑ほほえんだ南条が改札を抜けようとする。南条が歩くと、前を行く人々が道を開けた。当たり前だと明奈は思う。あんな格好をした男が目の前に現れたら、明奈だって距離を取る。今の南条を一言で表現するなら、ずばりヘンタイだ。


「やばっ。こっち来る」


 明奈の顔ら血の気が引く。日曜のアニメでよく見る、ドン引きして顔に縦線たてせんが入る様が頭に浮かんだ。正に今の自分を表すのにぴったりな絵ずらだった。ドン引きなんて言葉では表せないほどの嫌悪感が全身から噴き出している。


 思い起こしてみれば、南条には致命的にファッションセンスがない。初めて会ったときも、パジャマのズボンに袖を千切り取った半纏はんてん姿だった。ネクタイを頭に巻いたまま帰ってきたことがあると、伊代子から聞かされたこともある。


 いくら異世界からの転生者であったとしても、いっぱしの大人なのだから、それなりに身なりにも気を使うべきだ。あの姿で光の勇者を名乗られても、絶対に関わりになりたくない。


 百年の恋も冷めるという言葉がある。南条に抱いていた明奈の恋心は、一瞬にして凍りつき、粉々に砕け散って排水溝を流れ下水道へと吸い込まれて行った。


「逃げなきゃ」


 パニックになりかけている自分を叱咤しったし、明奈は人の多い東口に向けて歩き出した。あんな格好をした男と知り合いだと思われたくないから、一刻も早く南条から距離を取らなければならない。だが、生まれた森でハンターとして育った南条は、臭いや足跡などの僅かな痕跡こんせきから、どこまでもいつまでも獲物を付け狙う生粋きっすいのトラッカーだ。生半可なまはんかなことでは逃げ切れない。


 赤羽駅の東口広場に出ると、あえて喫煙所の脇を通り、酒場の多い通りに向かった。服に煙草の臭いが付けば、南条の嗅覚を少しでもかく乱できるかもしれない。


 夜の街を闇雲やみくもに疾走した。気がつくと、荒川の土手に立っていた。辺りを見回して誰もいないのを確認して、ようやく足を止めた。ストーカーに追われるというのはこういう気分なのかもしれない。だが南条は、ただのストーカーとは異なるプロの狩人だ。油断はできない。


 スマホを取り出し、助けを呼ぼうとした。父はダメだ。仕事中だろうし、いらぬ心配をかけるわけにはいかない。友達に相談するのも気が引ける。親や教師に話されても面倒だった。


「奈緒さん。奈緒さんだったら」


 数少ない南条と共通する知り合いだった。アニオタを毛嫌いしている奈緒だったら、きっと南条を叱りつけてくれる。気を落着けて考えてみれば、南条がすき好んであんな格好をしているはずはない。どうせ誰かにだまされたのか、やむを得ない理由があって身に着けているに決まっている。だが、あの格好を恥ずかしいとも思えない感覚はやはり異常だ。


 奈緒ならきっと南条をさとしてくれる。一目見た瞬間、腰の拳銃を抜いて南条を撃つ可能性もゼロではないが、南条ならたぶん死にはしないだろう。それしかなかった。連絡して、奈緒に迎えに来てもらう。  


 スマホを取り出した瞬間、スマホが振動した。叫びを上げ、スマホを土手の草の上に落としてしまった。拾い上げて画面を見ると、南条からのメッセージが映っていた。


 赤羽駅で見かけたが、こんな時間にどうしたのですか?何かトラブルならすぐに向かいます。


 南条からのメッセージはいつも硬い。簡潔で飾りのない言葉だけの、絵文字も無ければ添付された写真もないシンプルな構成だ。しばらく考え、明奈は自宅で勉強中で、赤羽駅には行ってないと嘘の返信をした。


 安心しました。勉学は大切ですが、無理をせず、きちんと睡眠を取ってください。おやすみなさい。


 南条からの返信を見て、明奈はようやく落ち着いた。南条にはこの世界の常識は通じない。考えてみれば、自分はそこに惹かれたのだ。


「光の勇者様はまだまだ育成途中で、レベル上げの途中なのかもしれませんね。おやすみなさい」


 画面に向けて微笑むと、明奈はひとり家路についた。

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