第27話 旅立ち
隣の女が顔を上げた瞬間、部屋の中から南条の声がした。
「我は光の勇者なり。我が立つこの場所に、光の加護があらんことを」
明奈の足元にまで這い寄ってきた女の動きが止まった。土気色の肌には血の気が戻り、
「わんわん」
203号室のドアから、真っ白な小さな犬が姿を現した。耳の垂れた愛らしい小型犬だ。犬は尻尾を振りながら、隣の女に駆け寄っていく。
「メロちゃん」
隣の女が声を上げた。メロと呼ばれた小型犬は飛び跳ねながら、隣の女の顔を舐めている。
「やめて、メロちゃん。くすぐったい」
隣の女が嬉しそうに笑う。両手を伸ばし、メロの体を抱きしめた。
「ユミコ。ユミコでねぇか」
203号室から、人の好さそうな老婆が現れた。ユミコと呼ばれた隣の女が振り返る。
「ばあちゃん、ばあちゃんけ?」
「なしただ、ユミコ。おま、そげなとこでどげんした?」
老婆が部屋の中に顔を向ける。
「おどさ、ユミコじゃ。こげんとこにユミコがおる」
おおっと間の抜けた声と共にドアが大きく開き、野良仕事帰りといった
「おお、ひさしぶりだのう。ユミコ。まんず、おおぎくなったぁ」
「じっちゃん、じっちゃん」
メロを抱きしめた隣の女は、泣き声交じりの声を上げながら立ち上がる。
「そんなとこにおっちゃいけん。ユミコ、こっちさ来い」
老人がユミコを
「ほんに、そっだらとこおっちゃなんねぇ。こっちゃ来い」
「いいの?わたし、そっちに行っていいのかな」
「あたりまえだぁ。死んじまったら、みぃんなこっちさ来る。悪いことなんかありゃしねぇ」
「わたし、悪いことしたの。お父さんやお母さんも泣いてて。親不孝だって。でも、もう取り返しがつかない」
「やっちまったことは仕方ねぇ。だからって、そんなとこでひとりぼっちでいたって仕方ねぇだろ?」
ユミコの肩が震えていた。明奈は、ユミコの肩にそっと手を置いた。
振り返ったユミコは、平凡な顔つきの女だった。疲れてさえいなければ可愛い人なのだろうと、明奈は思った。
「そんなに自分を責めないで。だれも怒ってなんていません。ただみんな、悲しかったんだと思います。あなたを失って」
ユミコの瞳から、大粒の涙が
「ありがとう。わたしを許してくれる?」
「許すもなにも、わたし、何もされていませんよ」
明奈が
「わたし、行きます」
ユミコが部屋に向かって歩き始める。老夫婦とメロが、笑顔で迎えていた。
「明奈、知り合いか?」
部屋から出て来た南条が、明奈に
「ううん、今初めて会ったの。お隣さん。今日で引っ越すんだって」
「そうか。それは残念だな、せっかく知り合えたのに」
南条はユミコに微笑みかけた。
「さようなら。あなたの行く先に、光あらんことを」
老夫婦に抱きしめられながら、ユミコは203号室に消えた。いつの間にか203号室のドアは閉まっていた。もともと最初から、ドアは閉まっていたのだと明奈は思った。
わんわんと元気よく吠えまわるメロが、203号室のドアをすり抜けて消えた。
「南条さん」
203号室に向かって手を振っている南条に、明奈は訊ねた。
「幽霊って信じます?」
「幽霊?う~ん、そうだな。いるといいな」
「いるといいんですか?怖くないんですか?」
「怖いさ。だけど、死んでも先があるって考えると、なんだかワクワクしないか?」
「ワクワク?しませんよ」
「そうか。そうだな。死んだら終わり。そう思って生きるほうが正しいのだろうな。今を生きる。それが人間なのだろうから」
「何いってるかわかりません。だけど、なんかいいですね」
「だったら助けてほしい。川窪さんが怒っている。掃除を手伝ってほしい」
「すっごく汚いのかな?」
「すっごく汚い。保障する」
「サイテー。軽蔑する」
明奈と南条は同時に笑い出した。振って沸いたように鳴き始めたセミの声が、ふたりを包み込んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます