東の君や永遠(とわ)に守らむ

葵トモエ

成長編

プロローグ 白梅が咲いた夜

 早春の江戸。まだ夜風が冷たかった。白梅がいくつかの蕾をつけていた。その樹の下に、若い男女の姿があった。二人は、大伝馬町の呉服問屋の奉公人で、男は歳三、女はうめ、といった。

「トシ坊、見てごらんよ、白梅が開きかけてるよ。もう、春だねぇ」

「う~、まだ、さみぃじゃねぇか!……おい、俺のことをトシ坊って呼ぶな!」

歳三は、うめが指さした枝を見上げながら、

「なんでぇ、たった一個の梅の花にぎゃあぎゃあと。まったく女ってぇのは。ばぁ~っと満開じゃねえと春らしくはねぇな」

と文句を言った。

「あたしの方が姉さんなんだから、トシ坊で充分だよ……もう、男ってのは、風情のない生きもんだねぇ。たった一輪だって梅の花は梅の花。春が来た知らせには違いないんだから」

そう言って笑う、うめの白いうなじを歳三はじっと見つめていた。


 歳三は、16歳で呉服問屋に奉公に上がった。呉服屋の奉公は二回目なので、特に困ることはなかったが、店には世話好きの女中たちも多く、歳三は何かと構われる存在だった。厨房にもよく呼ばれて、手伝いをさせられた。そんな中で、歳三は一人の下働きの娘に惹かれるようになった。他の女中たちとは何かが違っている。小柄で、特に目立つ言動をするわけでもないが、何か光るものがある。そして一年、歳三は、その理由に気がついたのであった。

「おい、うめ」

いきなり、歳三が呼ぶので、うめはびっくりして振り返った。

「どうしたのさ?そんなに恐い顔して……さあ、もう帰ろうか。明日も早いし……あんたも出掛けるんだろう?」

歩き出そうとするうめを、歳三は背中から抱いた。うめは驚いた様子で、

「何をふざけてるのさ、トシ坊……わかったよ。もう『トシ坊』なんて言わないから……!」

と歳三の腕を振りほどこうとした。しかし、歳三はさらにきつく抱きしめた。

「うめ……もう、無理に町人言葉を話すな。おめぇは、武家の娘だ!」

すると、うめの顔色が変わった。

「な、何を言ってんだい。あたしは、下働きのうめだよ。病気のおっ母さんを抱えてる……」

うめの声は震えていた。歳三は、

「俺の目をふし穴と思うなよ。おめえの立ち居振舞いをずっと見てきたんだ。それは、町人の動きじゃねえ。一つ一つの動作に隙がねえ。武家の女の所作だ」

その言葉を聞いて、うめがピクッと動いた。うめは尋ねた。

「トシ……さん、ずっと、私を見ていたの?」

「う……ん、ま、まあな」

歳三は言葉に詰まった。バラガキ時代の彼なら、気の良い言葉を並べ立て、女の心を捉えるのは簡単な事だった。しかし、今の歳三には、何もできなかった。ただ、後ろからうめを抱きしめたまま、動けなかった。

「うめはうめだ。なぜ武家の出だっていうことを隠すんだ?家の事情で働きに出るようになった武家娘なんて、いくらでもいる。恥ずかしいことじゃねえよ」

歳三が言うと、うめは表情を固くした。

「何も知らないくせに……苦労知らずで育った歳さんには、わからないわ。武家が落ちぶれるということが、どんなに辛いか。どんな酷いことをされたって、主家には逆らうことができないんだから……!」

うめはそう言って、うつむいた。

「何か、あったのか?」

歳三は聞いたが、うめは答えなかった。すると、歳三は話しだした。

「俺のさとは、多摩の石田村といってな、徳川さまの直轄地なんだ。主は将軍様だ。だから藩主に押さえられることもねぇ。俺は、俺の力で武士になる。そして将軍様を守ってみせる……俺の夢だ……!」

歳三は言った。それまで、誰にも話したことのなかった『夢』だった。

「大きな……夢ね」

うめは笑った。歳三は続けた。

「俺の夢……おめぇと一緒に叶えてぇ……!」

二人の時が一瞬止まったように、風が止んだ。

「俺は、おめぇに惚れているんだ!」

「歳さん……」

それまで固くなっていたうめの体から、力が抜けたのがわかった。歳三は言葉を続けた。

「おめぇに何があって、今の暮らしをしているのかは知らねぇが、おめえが武家でも町人でも、俺には関係ねぇ。おめぇと一緒に居てえんだ」

すると、うめは言った。

「私の父は、旗本であった主家の騒動に巻き込まれて、何の罪もないのに切腹させられたわ……武士なんてみんな同じよ。主のためにしか生きられない。もし歳さんが、そんなことになったら……」

「俺はおめぇを残して死んだりしねぇよ」

思わず、歳三は言った。

「俺は、今まで、何一つまともに続いたことがねぇ。仕事も……女も。だが、おめぇに対しては違う。絶対に幸せにする。一生離さねえ。これは、俺の誓いだ」

歳三は、うめを自分の方に向かせた。うめの目には、涙が溢れていた。

「俺は末子だ。跡をとることもねぇ。一緒に暮らそう、うめ」

歳三が言うと、うめはまっすぐに歳三を見つめた。それは、相手を信じているときに出る、うめの癖のようなものだった。

「歳さん……嬉しい。私も、ずっと、あなたを……」


春の訪れを示すかのように、いくつかの白梅が開いていた。


 しかし、幸せは、長くは続かなかった。ある日突然、うめは姿を消してしまった。歳三も奉公先を辞め、消息が途絶えた。



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