第28章 無情の折浜

 明治元年10月12日。朝早く、りょうと中村は馬を走らせた。遠くで船の汽笛が聞こえた。

(……船が、出るのか……!?)

「しっかり掴まっとけや!よかね!」

中村は馬に鞭をくれた。腕の傷口が開きかけ、血が滲んだ。

「中村さん!傷口が!お願い、無理しないで!」

りょうが叫んだが、中村は再度、馬を急がせた。左の手がしびれてきた。だが、この手綱を離すわけにはいかない。折浜おりのはままでの道は、曲がりくねっており、手綱を持つ手には力が入る。血の滲み方が酷くなってきた。傷口が開いてしまったのかもしれない。

「中村さん!」

「もう少しだ。もう少しで折浜ん港に着っ!降りたや走れや!」

中村が叫んだ。りょうは、中村の気持ちがわかっていたので、もう何も言わなかった。


 折浜の港に着いて、りょうは必死で走った。船体は見えていた。だが、渡り板はすでにはずされ、岸壁からも離れていた。


 ……間に合わなかったのだ。

 

 船の上に人が見えた。りょうには、それが鉄之助と銀之助だとわかった。

「鉄~っ!!鉄之助~!!銀之助~!!」

声の限りに叫ぶと、銀之助が気づいたようだ。鉄之助もこちらを見た。何かを叫んでいるようだ。だが、ちょうどまた船の汽笛が鳴り、何を言っているのかわからなかった。


 その時、中村が腕を押さえながらやって来た。船の上から、3人ほどがこちらを見ていた。

「間に合わんかったか……すまん。おいが怪我をせんかったや……」

中村が言った。りょうは、もう一度、船に向かって叫んだ。

「土方先生~!!」

鉄之助の姿が見えなくなった。船は遠ざかっていく。すると、背の高い人影が現れたのがわかった。

「土方先生!先生~!!」

それは紛れもない、歳三だった。だが、歳三はすぐに行ってしまった。

(父さん!?)

りょうは、もしかしたら、迎えの小舟が来るかもしれない、と期待した。歳三が自分を待っていてくれたなら、来るはずだ、と。追いかけてきた自分の『誠』の心を、歳三は誉めてくれるにちがいない、と、りょうは思い込んでいた。


 しかし、小舟の来る様子はない。船体はどんどん小さくなる。やがて、全ての船が見えなくなった。

(なぜ……?父さんは、僕を待っていてくれたのではなかったの……?)

りょうは、全ての体の力がなくなっていくのを感じていた。そこに座り込んだまま、船が見えなくなった海を、いつまでも眺めていた。


 ふと、我に帰ったのは、中村の呻く声を聞いた時だった。振り返ると中村がうずくまり、腕をおさえている。指の間からは少し血が流れていた。りょうは中村の元に走り寄り、

「中村さん、ごめん。傷の手当てをしなきゃ。あそこの小屋を借りよう」

と、中村を支えながら、浜辺の小屋に入った。りょうは、中村の包帯を取り、傷を看た。力を入れて手綱を握っていたせいで、傷口が開きかけていた。止血、消毒をして、包帯を巻き直した。

「ごめんね……中村さん。無理させて……でも、間に合わなかった……」

言ったとたんに、涙が溢れて止まらなくなった。

(また、父さんと離れてしまった……追いつけなかった……父さんは僕だと気づいたはずなのに……僕は、おいていかれたんだ……!)

りょうの頭には、踵を返して遠ざかった父の後ろ姿が焼き付いていた。りょうは涙を拭うこともせず、しゃくりあげながら、ただ、下を向いていた。


 中村は、そんなりょうを見て言った。

「ここを出た船は、一度は宮古湾に入っげな。港の人足がゆちょった。そこまで追うか?行ってやっど」

その声は、りょうの心に優しく響いた。だが、りょうはかぶりを振った。これ以上、怪我をした中村に迷惑をかけるわけにはいかない。命令違反を続けさせるわけにもいかなかった。それに、路銀も底をついていたし、何よりも気力がなくなっていた。それほどに、歳三の後ろ姿が悲しかったのだ。

「もう……疲れた……」

中村は、りょうが初めて、弱音を吐いたのを見た。それは、新選組の無鉄砲で生意気な小姓でも、優秀な少年医師でもなかった。父親に置いてきぼりにされ、父親を慕って泣いている、ただの娘であった。いつもの中村なら、りょうに憎まれ口を言って、その怒りで元気にさせようとするところだが、今のりょうに対しては、そんな気持ちになれなかった。中村は、りょうを優しく抱いた。

「中村さん……?」

「泣けばよか。泣っだけ泣いたや、また歩き出せばよか。それまでこうしちょってやっど」

りょうは、中村の優しさが嬉しかった。父のように、兄のように、自分を包み込んでくれるその温かい手……りょうは、思い切り泣いた。その温かい大きな手に包まれていると、なんだか安心できる気がした。自分は、こんな風に安心して泣ける場所を待っていたのかもしれない……そんな風に思われた。


 「わいは……これからどうすっど……?」

りょうを抱き締めたまま、中村が尋ねた。りょうは、しばらく考えていた。今、日野に戻るわけにはいかなかった。彦五郎がやっと元の職に戻れたばかりである。りょうがそこへ行ったらまた罪に問われるだろう。土方家とて同じだ。りょうが行けば迷惑がかかるのは明白だった。

「どこに……行ったらいいんだろう……僕は……」

りょうが悲しげに呟くと、中村は言った。

「もし、わいが、新選組を……過去を捨てて新しか生き方を望んなら……薩摩に来んか……?おいと一緒に……」

「えっ……?」

りょうは、それを聞いて、顔を上げた。中村の顔がすぐ近くにあった。自然と、中村の指がりょうの顎を上げた。唇が重なり、りょうは目を閉じた。


 なぜ、船は、りょうを乗せずに、そのまま行ってしまったのか……それには理由があった。


 蝦夷へ渡るために、新選組が乗り込んでいたのは、榎本艦隊の中の、大江丸たいこうまる。艦隊の最後に出港することになっていた。鉄之助は、毎日、仙台方面からの人の流れを見ていた。りょうがいつ来ても、すぐわかるように、銀之助と馬之丞と交代で見ていた。だが、出港間近になってもりょうの姿はなかった。馬之丞や五郎作は、

「良蔵は会津の戦で亡くなったのではないか」

と言っていたが、鉄之助は決して認めなかった。きっと、良蔵は生きている、生きていれば、必ずここまでやってくる、と信じていた。


 しかし、出港の合図の汽笛が鳴っても、りょうは現れなかった。鉄之助は、渡り板が外され、船が岸を離れるのをぼうっと見ていた。その時だ。

「鉄!あれ、良蔵じゃないか!?」

銀之助が呼んだ。鉄之助は、銀之助が指差した方を見た。必死で走って来るのが見える。それは間違いなく、りょうだった。会津にやって来たときと同じ、薬箱を背負っていた。

「良蔵、良蔵だ!銀!俺、土方先生を呼んでくる!小舟を下ろしてもらって、あいつを連れてくる!」

興奮する鉄之助。その騒ぎを聞きつけて、陸軍隊の隊士がやって来た。

「どうした?乗り遅れた仲間が来たのか?小舟をおろしてやろうか?」

その隊士は、陸の方を見て、驚いたように大きな声を出した。

「あれは、薩摩の中村半次郎だぞ!お前らの仲間と一緒にいるのは新政府のやつじゃないか!」

それを聞いて、鉄之助は驚いた。改めて陸を見ると、確かにりょうのそばには背の高い男がいた。

「そんなバカな!なぜ良蔵が!人違いじゃないんですか?」

鉄之助に言われて、今度はその隊士が怒った。

「俺たちは上野の戦いであいつには痛い目にあってるんだ!間違えるもんか!お前の仲間こそ、新政府軍に寝返って、追っ手を連れてきたんじゃないか!?」

「何を!?良蔵は、そんなやつじゃない!!」

鉄之助と陸軍隊の隊士がにらみあった。銀之助はその様子を見て、マズイ、と船室に走った。

「会津の新選組は全滅したって聞いてるぞ。生きてるってことは、そういうことだろう」

陸軍隊の隊士は、ニヤリと笑って言った。鉄之助の頭に血がのぼった。鉄之助は、その隊士に殴りかかった。


 「やめろ!!何をしている!?闘争は許さん!!」

聞きなれた怒鳴り声がした。銀之助に様子を聞いてやって来た歳三であった。歳三は、鉄之助を殴り飛ばした。鉄之助は甲板に転がった。

「おめえらは、この忙しいときに何をやってんだ!!」

歳三は鉄之助をにらんだ。鉄之助は言った。

「先生、良蔵が来ました!迎えに行くので、舟を下ろしてください。俺が行きます……!」

その言葉に、歳三の顔色が一瞬、変わった。

「なに!?」

歳三は、陸の方を見た。「先生!」と叫ぶ声が小さく聞こえた。間違いなく、りょうであった。

(りょう!生きていたのか……!あれは、誰だ?)

「同行してきたのは、新政府軍の中村半次郎です。追っ手かもしれません。迎えに行くのは危険です」

陸軍隊の隊士が言った。

「中村……半次郎だと?」

その名を聞いた歳三が、陸軍隊隊士の顔を見つめた。隊士は一瞬ビクッとしたようで、

「薩摩の軍監です。総督はやつをご存知でしたか?」

といくぶん、控えめな声で聞いた。

「あぁ。京にいた頃、名前だけは、な……」

歳三は、無表情で答えた。確かに、その男の『名前だけ』は知っていた。

(あの男ととりょうがなぜ……?今、船を止めて迎えに行って何かあったら、榎本さんにも、他の部隊にも迷惑をかけてしまう……!)


 鉄之助は、遠ざかる陸の方を不安げに見つめながら、もう一度、歳三に言った。

「先生!良蔵を迎えに……!」

だが、その時、

「舟は下ろさねえ!良蔵を迎えに行く必要はない!」

歳三が言い放った。鉄之助は絶句した。歳三は踵を返して船室に向かおうとした。そして、そこに呆然としている鉄之助と、銀之助に向かって言った。

「鉄、銀、もう良蔵を待たなくていい。やつのことは、捨て置け」

歳三はそのまま、船室に消えた。鉄之助は、歳三の言葉が信じられなかった。

「なんで……?なんでなんだ!?そこにいるのに、なんで迎えに行っちゃいけないんだ!?良蔵は仲間だ!!」

銀之助が、鉄之助をなだめた。

「土方先生には何かお考えがあるのかも知れないよ……鉄。僕たちは、良蔵を待っていようよ。蝦夷で」

やがて、りょうの姿も見えなくなった。


 歳三は、船内の自室で、どこにもぶつけられない腹立たしさに耐えていた。

(薩摩の、人斬り半次郎……近藤さんが、やつだけは相手にするな、とよく言っていた。油小路のあと、やつが現れて、りょうが御陵衛士に狙われていると情報をよこした、と新八が言っていた……『墨染』の時……やつは狙撃犯と御陵衛士を匿った……やつは、薩摩の間者たちを束ねている、と噂されていた。鳥羽伏見の前に庄内藩の屯所が攻撃されたのも、その間者たちのしわざだ……なんでそんなやつと一緒にいた……りょう!!)

「くそっ!!」

歳三は、机を大きく拳で叩いた。その大きな音に、安富が心配したほどだ。


 りょうは生きていた。そのことが歳三は嬉しかった。と、同時に悔しかった。鉄之助より誰より、りょうをその足で迎えに行きたかったのは、歳三自身であったのだ。

(りょう……俺は、我が子のために、仲間を危険にさらすことはできねえんだ!……だが、おかげで、消えかけてたものがまた、燃え出したぜ……蝦夷は……俺の最期の砦になるだろう……!)


 榎本艦隊と徳川脱走軍は、宮古を、そして蝦夷を目指す。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る