第29章 はじまりの場所へ
(この人と一緒に……薩摩で……新しく……生きる……?)
中村に力強く抱き締められ、りょうの思考は止まっていた。動くこともできなかった。りょうは、深い水の底に、自らが落ちていくような感覚に包まれていた。中村の手が、りょうの襟元から滑り込み、その胸に触れた。りょうのからだが、ぴくっと震えた。と、その時、りょうの懐から転げ落ちたものがあった。
「カツ-ン!!」
と、それは、石にぶつかって乾いた音を響かせた。
中村は、はっとして手を引っ込めた。りょうは、思わず胸をおさえて、中村から離れた。
その音は二人を現実に引き戻すには十分であった。
「す、すまん!おいは……」
(おいはいったい、ないをしようとしちょったんだ!こげん年ん離れた小娘に……!)
中村は、自分の理性のいたらなさを恥じていた。この娘をひとりにはできない、側にいてやりたい、と思うあまり、自分はとんでもないことをするところだった、と後悔していた。りょうもまた、自分の身の上に初めて起きたことに動揺していた。心臓が早鐘のようだった。りょうは中村を見ることができず、背をむけたまま、何かを探すように下を見ていた。先程の音の主を探していたのだ。そうでもしていなければ、とてもその場にいられなかった。
「あ、
転がっていたのは、
『こん、でけえのが、とっつぁまだ』
りょうは、その小法子をじっと見つめた。
(いいのか?……このまま、新選組のことも、会津のことも、父のことも忘れて、薩摩へ行っても……僕に、新しい生き方があるのなら……)
小法子を指で倒すと、それは跳ね返るように起き上がった。また、佐左衛門の言葉が響いた。
『のめっても、決して負けんな、わらし!』
その時、小屋の隙間から差し込んできた太陽光が、ちょうど、りょうの刀の鍔に反射し、眩しさにりょうは目を細めた。その刀は、父、歳三がりょうのために佐藤彦五郎を通して送ってきた刀であった。それを見たりょうの心に、一筋の光が射した。
(……まだ、諦めるわけにはいかない……僕は、この刀に恥じない働きをするために、新選組に入ったんだ……)
後ろから中村が、りょうに声をかけた。
「わいが西洋医学を学ぼごたっとなら、薩摩にもイギリスん医者がおっ。必要なら、長崎に勉強に行かせてやっ。じゃっで、おいと一緒に、薩摩に……」
りょうは、目を閉じ、深呼吸をした。そして振り返り、真っ直ぐに中村を見つめて言った。
「僕は、生まれたところに帰ります……!」
その顔には、迷いはなかった。中村は、りょうの気持ちが決まったのだ、と理解した。
「……わかった。もう、ないも
と、中村は言った。
りょうは中村を見つめたまま、ずっと思ってきたことを言った。
「あなたは、どこか、土方先生に似ている」
すると中村は眉をしかめ、
「あまり嬉しゅうはなか」
と言ってから笑った。りょうもクスッと笑って、
「土方先生は、僕を叱りつけながらも、僕の気持ちを受け止めてくれていた。あなたもそうだ。僕がどんなに酷いことを言っても、あなたは僕の心をわかってくれていた……先生と……似ている。似ているから、一緒にいると、きっと甘えてしまう。あなたは優しくて、あたたかい。優しいから……僕は、大切な人さえ、忘れそうになった……」
と言った。
「土方を、追うど?」
中村が聞くと、
「もう、蝦夷へ行く船はないでしょう……行くためのお金もないし……今は、母さんの墓のある、神奈川宿に帰りたい」
とりょうは答えた。
「わいは、神奈川ん生まれやったんか……」
中村が聞いた。りょうは黙って頷いた。
あの、6才の頃から今まで、りょうはずっと走ってきた。とにかく、歳三の背中を追い続けてきた。その背中が見えなくなった今、りょうは、母のところに一度、戻らなければ、と思った。それは理性ではなく、本能、のような感情だったのだろうか。
(一度振り出しに戻り、また始めるのだ)
りょうは、そう決めた。決めたら揺るがないのが、りょうの性格であった。
「新政府軍がこんまま榎本たちを自由にさせっとは思えん。蝦夷ではまた戦になっど。土方だって、自分の娘を戦に巻き込みとうはなかとじゃらせんか?わいが幸せに暮らすこっがいっばんよかとだぞ。戻っなら、母君ん墓を守って暮らしたやどうなんじゃ?」
中村が言った。中村は本当に心配していた。りょうを放っておいたら、必ず歳三を追うに違いなかった。りょうをもう、戦の中に送りたくない、と中村は思っていた。
「中村さんは、僕が土方歳三の子供であることまで、知っているんだね」
「本当ん名も知っちょっぞ……りょう、やったな……」
りょうは、中村の優しさが嬉しかった。すべてを知った上で、自分を受け止めようとしてくれている手がそこにあった。この手をとることができたら、新しい生き方ができるのなら……それは幸せなのかもしれない。しかし、りょうの選択は違った。
「あなたが薩摩を捨てられないように、僕も新選組を捨てられない。それは、父さんの全てだから。父さんが行く『誠の道』が、たとえどんな道でも、僕がそれを忘れてはならないんだ……」
それを聞いた中村は、この娘をそこまで奮い立たせる、土方歳三という男に会ってみたい、という感情が湧いてきた。普通の娘ならば、このような仕打ちを受けたら諦めもつくだろうに、それでもなお、この娘は父親を慕っている。それほどの男だと言うのだろうか、土方歳三とは……
「石巻から、横浜へ向かう船が出っ。そこまで送ろう。新政府のもんが話をつくれば、問題なかろう」
石巻の港で、荷物を積み込んでいる貨物船に中村が話をつけた。りょうは横浜まで乗せてもらえることになった。
「中村さん、ひとつだけ聞いていい?」
と、りょうが聞いた。
「何や」
「中村さんは、蝦夷へ行く新政府軍には、入らないよね?」
以前、聞いた答えを、もう一度確かめたかったのだ。中村は、りょうに言った。
「おいは寒かところは好かん。どうせ、黒田清隆あたりが参謀になっじゃろう」
りょうは、それを聞いて安心したように言った。
「あなたとは、もう、敵同士になりたくないんだ……良かった」
その笑顔に対して、中村もまた、心の中で
(おいも同じじゃ)
と答えていた。
「……いろいろ、ありがとうございました。あなたのことは……忘れない」
りょうは、そう言って船に乗り込んだ。中村は、行こうとするりょうの手を掴んだ。
「りょう……!」
りょうが振り返った。りょうは中村を見つめた。中村もまた、りょうを見つめた。
(今、
「達者でな」
中村はそう言って、手を離した。
「あなたも」
りょうは船の上に駆けあがった。船はすぐに出港した。
りょうはしばらく手を振っていたが、やがて中に入った。
中村は、遠ざかる船を見送り、繋いでいた馬のところに戻った。すると、数人の侍に取り囲まれた。
「やっぱい後をつけられちょったか……ないか用か?」
中村は聞いた。
「半次郎さん、一緒に来てくれんか。西郷
そう言ったのは、同じ薩摩の、
中村が連れていかれたのは、石巻からさほど遠くない、松島にある寺であった。その一室に、大柄な男が座って待っていた。
「西郷
「入っでんよかど」
声の太い、その男は、西郷隆盛、薩摩藩の総差引(司令官)である。中村は、部屋の中に入り、西郷の前に平伏した。
西郷は、いきなり中村を怒鳴り付けた。
「わいは一体、
中村は、頭を下げたまま、答えた。
「
西郷は続けた。
「捕虜を逃がした上に、敵将の元へ送い届くっなど、軍務違反も
中村は黙っていた。
「わいが、あん者に頼まれてやったと言えば、わいをまた軍に戻そう。わいは
西郷がそう言うと、中村は、
「頼まれたりしていもはん。
と言った。西郷はあきれて、
「死罪に処させれてもかまわんちゅうのか?そいほどまでに、あん新選組ん娘に骨抜きにされたんか!」
西郷に全てを知られていることに驚いた中村は、顔をあげた。
西郷は冷ややかに、中村を見据えていた。
「あん娘は、土方歳三ん
西郷は、意地悪く言った。それを聞いた中村は、顔色を変えた。長州や土佐が新選組、それも土方歳三に対してかなりの恨みを抱いているのはわかっていた。彼らにかかれば、りょうは簡単に殺されてしまうだろう。
「そしこはやめたもんせ!あん娘は、わっぜ優れた技術を
中村は、たぶん自身の記憶では初めて、西郷の言葉に異を唱えた。西郷は中村を睨むと、
「あん娘が土方歳三ん
と聞いた。中村は
「知りもはん。どけ行っかは聞いておりもはん」
と答え、押し黙ってしまった。西郷は、
「あっまでもしらを切っなら仕方がなか。おいん配下に探させ始末すっまでだ」
と言った。西郷は本気だ、と中村は思った。背筋に冷たい汗が流れるのがわかった。
「玉置は、おいの
中村の必死な願いに、西郷はふんっと息を吐いて言った。
「ならば、
西郷にそう言われては、中村は従うしかなかった。父親が罪に問われ、武家とは名ばかりの貧乏のどん底で苦労していた中村を引き立て、今の地位まで上らせてくれたのは西郷である。長州や土佐の志士たちと同席でき、宮家と繋がりを持てるようになったのも、すべて西郷の力だった。逆らうことはできなかった。中村は、りょうのために、新政府軍から離れようと決めていたのに、りょうを助けるため、また軍に戻らなければならなくなった。
西郷は続けて言った。
「今は、蝦夷は冬で手を出せがならんが、春になれば、どげんなっかわからんぞ。そんときはわいにも声がかかっかもしれん。今から覚悟をしておけ」
その言葉に中村は唇を噛んだ。つい先刻、りょうにもう敵になるのは嫌だと言われたばかりであった。中村が返事をしないので、西郷は中村に近づき、その肩をつかんだ。そして、言い聞かせるように話した。
「わいが、京でん、下関でん、江戸でん、花街んおなごとどしこ浮き名を流そうと構わん。あっ意味、男ん甲斐性でもある。じゃっどん、あん娘は
中村には、故郷の薩摩に、妻がいた。年老いた母や妹と、そう大きくもない畑を耕しながら、中村の帰りを待っている、『ひさ』という名の妻である。島津久光について上京してから、ほとんど故郷に帰ったことはなかった。忘れていた訳ではない。西郷の言う通りであった。中村は、りょうを連れて帰っても妻にすることはできないのだ。
このことをりょうが知れば、またきっと罵られるに決まっていた。それでも中村は、その胸に沸き上がる想いを押さえることができなかった。それほどに、りょうを愛してしまったのだった。
「今後、わいがもし、あん娘んために今ん立場を
西郷の言葉には、凄みがあった。中村は、それに対して反論することができず、
「わかりもした……」
と、答えただけであった。
やがて、庄内藩の処分が落ち着くと、西郷は、中村の監視役に別府晋介を付けて、薩摩に帰した。自らも、そのあと帰郷した。
奥州での戦は終わった。新政府軍は、本州のほとんどをその支配下においたが、人員も、経済も、長期の遠征でかなり疲弊していた。この上、真冬の海を越えて、蝦夷に戦に出ていくことは、不可能であった。まだ新政府はひとつになっておらず、あくまでも各藩の寄せ集め部隊であった。これ以上の派兵の強制が各藩の不満を増強させることを、西郷はわかっていたのだ。西郷は奥州の後始末を、黒田清隆等の穏健派に任せた。遺恨が残らないような処分を、黒田らは検討した。西郷の言うように、春になるまでは、新政府軍にとって、休養と準備が必要であった。
そして、それは、蝦夷に渡った徳川脱走軍も同じだったのだが……
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます