第31章 中村半次郎、横浜へ

 蝦夷がまだ、雪に閉ざされていた頃、南国の薩摩では、もう春の気配が感じられるようになっていた。薩摩の元軍監、中村半次郎は、故郷の吉野村実方よしのむらさねかたで、新たに土地を開墾して農地を広げようとしていた。もう、戦に駆り出されることもない、自分はこの地で一生を過ごすのだと決めていた。そんな矢先、西郷隆盛から呼び出しがあり、中村は、霧島にある日当山ひなたやま温泉に向かった。


 西郷は東北遠征から戻った後、持病の湯治を兼ねて、日当山温泉ですごしていたのである。西郷は、中村に青森に行くように命じた。中村にとっては、予想外の命令であった。

あてが青森へっのじゃっとな?ないごてじゃ?あたやもう、派遣されんちゅう約束やっじょやったが」

中村が問うと、西郷は言った。

「おいんわいじゃ。おいん代わいに、官軍ん様子を監視して欲しかど。まだ雪があっでといって、いつまでもだらいだらいとしちょっては示しがつかん」

西郷の命令に、中村が逆らえるはずがなかった。しかし、中村は悩んでいた。りょうと約束したからである。もう、新政府軍には加わらない、と。


 「ないを悩んじょるんか」

西郷の声は、明らかに中村を威嚇していた。

「あん娘か?あん娘なら、故郷さとにおっげな。母親ん墓があっとじゃろう?そこん寺で暮らしちょっと、密偵がわっぜ前に知らせてきた」

中村の表情を見て察した西郷は言った。中村はそれに対して、

「ないごて、教えてくださらんやったとな?あの娘が落ち着いた先を知らせと密偵に命じたんな、おいじゃらせんか……!」

と、西郷に抗議したが、西郷は顔色ひとつ変えなかった。

「聞いていけんすっとじゃ?あん娘を追いかけて神奈川に行っか?前にもゆたが、てげてげ目を覚まさんけ!」

西郷に威喝されて、中村は言い返すことができなかった。その通りであった。行き先を聞いたとして、何ができるわけでもない。だが、中村はただ、知りたかったのだ。りょうが元気でいるかどうかを。

(あん時、生まれたところに帰っ、ちちょった。どうかそんまま、静かに暮らしてほしか……)

中村はそう願っていた。あのとき、自分の気持ちを押さえきれずに抱き締めてしまったことを、中村は後悔していた。あのまま一緒にいたら、何をしでかすかは、自分が一番よくわかっていた。あれで良かったのだ、故郷にいるなら、もう会うこともあるまい……自分は薩摩の人間。西郷の名代として、青森でも蝦夷でも、官軍についていくだけだ、と、中村は決心した。


 中村が支度のため戻る、と言って退出すると、男が西郷の側に寄った。西郷の下に付いている密偵であった。

「いいのですか?中村さまに、あの娘が、蝦夷へ渡ったことを話さなくても……」

すると、西郷は言った。

「困ったこち、半次郎ちゅう男、情の深けやつでな、あん娘に本気おんしき惚れちょっど。もしあん娘が蝦夷に行たこっがわかったや、決して青森行きを納得せんじゃろうでな。嘘も方便ちゅうこっだ。おいん名代であれば、黒田(了介)や、山田(市之允)も、動かんわけにはいくまい。いつまでん、蝦夷におる榎本にとか顔をさせっおくわけにはいかんからな。そいに、半次郎には、まだ監視が必要や……」


 しかし、西郷も船の航路までは計算外だったようだ。中村の出立は、新政府への根回しもあって、2月の下旬頃になった。この時期、まだ北陸辺りの海は荒れる。いつもなら、長崎回りで日本海を通るはずの中村の乗った船は、安全策をとって、瀬戸内海から大坂を回った。太平洋に出て、補給のために立ち寄ったのが、横浜の港であった。


 すでに3月に入っていた。ここで、中村は有力な情報を得た。2月に、アメリカから新政府に渡された、『ストーンウォール号(甲鉄)』が、横浜港から青森へ向けて出港の準備をしていたのであった。乗り込むのは、新政府で組織された海軍である。佐賀藩兵を中心に組織され、海軍参謀として、増田虎之助ますだとらのすけという人物が艦隊を率いていた。


 増田は、中村が西郷の名代だと知ると、ぜひ、甲鉄艦に乗船してほしい、と願った。甲鉄艦の艦長は、長州の中島佐衡なかじますけひらといったが、彼も同じように、中村の乗船を歓迎する、と言ってきた。中村は、薩摩藩籍の軍艦、春日かすが丸に、同じ薩摩の黒田了介くろだりょうすけが乗船していると聞き、黒田を訪ねた。黒田は陸軍参謀である。

「半次郎どん、あんたがきてくるっとは、心強か限りだ。青森口副総督にでん、任命されたとじゃろうか?」

黒田は、精一杯の皮肉を込めて言った。西郷隆盛が東京の軍務官に、いつまでも榎本武揚を野放しにしている、と不満を訴えていたのを知ってはいたものの、まさかすでに軍を離れた中村を名代にするとは予想していなかったのだ。黒田と中村は、ふたりとも薩摩の下級武家の出であり、地道に今の地位を築いてきた黒田にしてみたら、西郷の力でのしあがった中村は、妬ましい存在であった。

「了介どん、おいは、戦闘に加わっつもりはなか。あっまでん、官軍ん監視んため、西郷先生ん意向を司令官に伝ゆっために来ちょっど」

と、中村は言った。黒田にプレッシャーを与えられれば十分だと考えていた。『あまりもたもたしていると、俺が出るぞ』、と西郷が構えていることがわかれば、黒田は動くに決まっている。


 結局、3月9日を期日として、新政府連合艦隊は出港することに決まり、それまでの数日間、中村は横浜に留まることになった。


 中村には、腹心の部下がいた。名前は半蔵といい、お互い若い頃から知っている。会津でも、常に中村に付かず離れず、密偵として行動した。この半蔵が、りょうが世話になっていた寺を見つけ出した。中村はそれを聞くと、どうしてもその寺に行きたくなった。すると、

「落ち着いてください、中村さま。りょうどのは、その寺にはおられません」

半蔵は、中村の気持ちを理解してはいたが、今はそれよりも大切な役目が控えていることを知っていた。西郷の命令は絶対なのである。

「おらん?どこかに仕事に出ちょっちゅうこっか」

中村は聞いた。

「わかりません。もう長い間帰っていないようでした」

半蔵は答えた。

「まさか、蝦夷に行ったか?蝦夷に行っ船がまだあったんか?」

中村の問いに、半蔵は首を振った。

「蝦夷までの船賃は、安くありません。密航してもすぐに捕まります。寺も住職もかなり質素でしたし、とても船賃を肩代わりできるとは思えません」

半蔵が言うと、中村も、

「あんまっすぐな無鉄砲に、密航なんて芸当がでくっはずがなか。隠れて日野ん養父んところにでも戻ったんかも知れんな」

と言い、

母御ははごん墓参りでん、させてもらうか……半蔵、おいが話すと、薩摩じゃとばるっ。わいが住職に話を通してくれ……頼ん」

と、半蔵に頭を下げた。主にこうまで頼まれては、断るわけにはいかない。軍服から着物に着替えて神奈川宿の寺まで来たふたりは、住職に頼んだ。

「こちらの殿は、りょうどののご友人であられる。神奈川まで仕事で参られたのだが、こちらに母御の墓があると聞いていたので、お留守のところすまぬが、線香だけでもあげさせていただけまいか?」

住職は、うめの墓前にふたりを案内した。


 ふたりが手を合わせるのをじっと見ていた住職が、中村に言った。

「あなたさまでしたか……あの娘の心を騒がせておったのは……」

中村が驚いて振り返ると、住職が言った。

「あの娘は、行くべきところに行きました。もう、ここへは戻りますまい」

「それは、父上……のところですか?」

半蔵が聞いた。

「これ以上は申し上げられません。あの娘は、進む道を己れで決めました。でも、母親の墓に参って下されたこと、本人が知れば喜びましょう」

住職はふたりに深く一礼し、その場を去った。


 「ずいぶんと、勘のするどい僧ですな」

半蔵が言った。すると、中村は決心したように言った。

「半蔵、おいは青森に留まらず、蝦夷へ行っど!りょうは、蝦夷におっ」

「中村さま」

半蔵が心配そうな顔をした。中村は、

「心配すっな。おいも武士や。命令は遂行すっ」

と答え、また港へと向かった。


 中村は甲鉄艦に乗り込んだ。甲鉄を旗艦とした、新政府軍の軍艦は八隻。品川沖で艦隊を整え、北に向かった。

(おいは、りょうを死なせっ訳にはいかん……!)


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