第3章 沖田、最後の遠征
「甲府、へ行くんですか?」
りょうは歳三に尋ねた。もう、すっかり春である。元大名屋敷の庭には、赤や白の梅が鮮やかに咲いていた。歳三のそばにいるのは、りょう一人であった。他の四人、鉄之助、銀之助、
「名目は、天領の治安維持、だ」
歳三は言ったが、その目は遠くを見ていた。
「名目って……本当は違う、ということですか?」
りょうは、お茶を歳三に運びながら聞いた。歳三は、
「鋭いな、おめぇは」
と笑った。
旧幕府恭順派執行部の最大目標は、『徳川宗家の存続』であった。新政府軍の強硬派は、旧幕領の全てを没収しようとしていた。旧幕府にとって、抱えていた旗本や御家人、その家族の生活の基盤を出来るだけ多く残すためには、新政府軍にあらぬ理由を掲げられて、徳川の直轄地を没収されるわけにはいかなかった。従って、恭順派は、ことさらに『徳川宗家当主徳川慶喜公の絶対恭順』を盾に、旧幕臣に対して、新政府軍に対し、軽挙妄動に出ることのないように、と命じていた。
「だがな、幕府が雇ったのは、侍ばかりじゃねぇんだ。代官の命令で、歩兵に雇われた町人や百姓がいる。そいつらは幕府がなくなっただけで、明日の食い扶持にだって、事欠くんだ。恭順派連中は、そんな奴らのことなんで、考えていねぇだろうさ」
と、歳三が言うと、りょうは、
「その人たちが、問題を起こすんですか?」
と聞いた。
「武州や、甲州に流れていった歩兵崩れが騒動を起こしている。これを大きくさせないように、『鎮撫隊』を派遣するというわけだ。野州では、すでに一部の脱走兵が捕らえられていて、謹慎させられている。俺たちは甲州の方を抑えに行くことになっている。この間、彦五郎
と歳三は言ったが、その顔は暗かった。りょうは、
「先生は乗り気じゃないんですね」
と言うと、歳三はふふん、と笑った。
「
りょうは、歳三の説明を黙って聞いていた。歳三は続けた。
「
歳三は、りょうを相手にこんな話をしている自分が可笑しかった。京にいた頃には、小姓と話すのは仕事を言いつける時くらいだった。たいした面倒も見てやらなかったのに、こいつらはよく俺についてきてくれたな、と思っていた。
「新選組は、いつ破裂するかわからない、不発弾ですものね」
りょうが的を得た言葉を使った。
「しかも、近藤さんを承諾させるために、エサも撒きやがった」
「エサ?」
りょうが聞いた。
「近藤さんを大名にするなんて言いやがった。百万石だと。そんなもん、今の徳川にできる訳ねぇ。近藤さんにだってわかっているはずだ」
歳三は舌打ちした。その理由が、りょうにはすぐにわかった。近藤は『エサ』に釣られたのである。いや、積極的にエサを食おうとしたのかもしれない。
この出陣に成功を収めれば、新選組の株も上がり、新政府の力も削ぐことができるかもしれなかった。甲州街道には、近藤の故郷も、歳三の故郷もある。そこを大名として通る姿を、近藤が想像したとて、不思議はない。
「甲州を抑えなきゃならねぇってのは、わかってる。そのために、密かに探らせてきたんだ。あそこは、新政府軍が江戸に向かうのに、最も近道だからな。だが、人数が足りねぇ。洋式の訓練だって間に合わねぇ。今じゃねぇんだ、ほんとは……!」
歳三は、鳥羽伏見で、洋式銃と大砲の力を嫌というほど見せられた。これからは洋式軍隊を整備しなければならない。そのために銃の調達や、隊士の訓練も必要だった。しかし、横浜や品川で、治療後に脱走した隊士は何人もいた。その中には、鉄之助の兄もいた。兄の代わりに自分が切腹する、と鉄之助は言ったが、
「土方先生、戻りました!」
小姓たちの声が聞こえた。歳三は、
「よし。良蔵、来い。いいもの見せてやる」
と、りょうを伴って玄関に降りた。玄関を上がった板の間に、広げられていたのは、洋装の軍服だった。四人は、大八車いっぱいに、隊士分の軍服を積んできたのだ。
「カッコいいだろ、良蔵。僕たちのもあるんだよ」
と、銀之助は嬉しそうに言った。略式の軍服だが、小姓たちのも揃えられていた。
「これからの戦は、洋式軍服だ。動きやすいし、軽い」
歳三は言い、数日後には、髪も切ってきた。りょうは歳三の変わりように目を見張った。
「どうだ、似合うだろう」
歳三は満足げだった。フランス陸軍の軍服を着て、腰には、愛刀の
(今でも母さんと、一緒にいてくれるんだ……)
父の脇差を見つめ、りょうは思った。
甲府への出立は、3月1日と決められた。
「僕は、また留守番かなぁ」
とりょうは呟いた。
「沖田先生がいるからな。医学所からも、軍に付き添うために、何人か抜けるみたいだし」
鉄之助が言った。後方支援として、良順は何人かの弟子を近藤につけることにしていた。いつぞや、りょうが言ったことを、良順は試験的に実践しようとしていたらしい。
2月末、歳三は良順に呼ばれ、医学所を訪れていた。良順から大事な話がある、と言われた。良順の紹介で
「良順先生、話ってなんだ……?」
訪れた歳三を、良順は重々しい表情で出迎えた。
帰りに、沖田の病室へ寄った歳三は、沖田に甲府への出陣を告げた。
「いってらっしゃい、土方さん。カッコいいですよ」
軍服の歳三を誉めて、いつものように笑っている沖田に、歳三は言った。
「今回はおめぇも連れていく。日野を通るんでな。おめぇもだいぶん良くなったらしいし、挨拶方々、たまには遠出もよかろうと、良順の許しをもらったんだ」
「本当ですか?」
沖田は目を丸くする。
「ああ。だから、しっかり食って栄養つけとけよ。おめぇの分の軍服もあるからな」
と歳三が言うと、
「僕が洋装ですか?似合うかなあ。ようし、少し木刀でも振って鍛えておくかな」
と、沖田は木刀を握る真似をして見せた。
「おいおい、無理すんじゃねぇぞ」
歳三は笑ったが、涙が出そうになったので思わず、靴を直すふりをして身をかがめ、沖田から見えないようにした。
『沖田が会いたい者がいたら、今のうちに会わせておくように』
良順は歳三に言った。沖田の命は、持ってあと1~2ヶ月だろう、と。
沖田総司には、二人の姉がいた。長姉のみつの夫は婿養子で
沖田を日野に連れていくということは、必然的にりょうも連れていくということになってくる。
(あいつには、ほんとのことは言えねえな。すぐ顔に出ちまうから)
りょうはその話を聞いて喜んだ。多摩に行ける、というよりも、沖田が外出できることに、素直に喜んだのである。
「
無邪気な顔をして喜ぶりょうを見ながら、沖田は思った。
(土方さんたら、僕がわからないとでも思っているのかなあ。何年付き合ってると思ってんだよ)
沖田には、歳三の心がわかっていた。これは沖田にとって、最後の遠征なのだ。日野の佐藤彦五郎や、
3月1日、江戸を出発。この日は晴れていた。旧幕臣ということで、近藤は『
「馬で行きたい」
もちろん、誰もが反対した。りょうも、
「沖田先生、冷たい風に当たるからダメですよ。言うことを聞いてください」
と言ったが、頑固な沖田は、
「僕は殿様じゃない。出陣に駕籠はあり得ない」
と言ってきかない。それを聞いていた歳三が、
「総司、来い」
と沖田を呼び、自分の馬に乗せるために手を引いた。
(軽い…!)
あまりの沖田の軽さに歳三は驚いた。
「土方さんに馬に乗せてもらうなんて、京の頃だったら、女の人たちから、さぞ恨まれるでしょうね~」
などと、沖田は冗談を言って笑う。歳三は、
「このわがまま小僧。ダメだと判断したら強引にでも駕籠に押し込むからな!落ちるなよ!」
と言って歩みを進めた。りょうはハラハラしながら、空の駕籠について歩く。歳三は沖田の後ろから手綱を握りながら思った。
(こんなに痩せちまいやがって……こんなに白くなっちまいやがって……総司……!)
涙が出そうになって、歳三は鼻をすすった。それが沖田に聞こえたらしく、
「土方さん、風邪引かないでくださいよ」
とお節介を言う。
「おめぇに心配されたかねぇよ」
と答える歳三。
「幼い頃にね、一度だけ父に馬に乗せてもらったことがあったんです」
と沖田が言った。歳三は黙っている。
「それが、たった一つだけの、父の記憶なんです。草っぱらで馬を走らせて……風が心地よかった……」
沖田は遠い思い出を追った。父の顔は思い出せない。が、馬の背から見た草原の緑は、今も心に残る。
「土方さん、あの子に思い出作ってやってくださいよ。大人になっても忘れないように」
沖田は前を向いたまま言った。やはり歳三は黙っている。
「僕には、近藤さんと土方さんとの記憶ばかり残っているからなあ。ろくな思い出じゃない」
「おめぇはガキの頃から小生意気で、扱いにくかったからな」
歳三は言ったが、声が震えていた。沖田の脳裏には、試衛館や多摩で、近藤と歳三と三人で過ごした日々が鮮やかに蘇っていた。貧乏道場の主と師範代と塾頭。明日の米にも窮していた。
「でも、僕は、楽しかったよ……」
沖田が言った。その目に涙が光った。歳三の頬を、涙がいく筋も伝った。
一日目に泊まったのは内藤新宿とも、府中ともいわれているが、翌3月2日には日野に入った。
「雨になるかもしれないな」
と誰かが言った。寒い日だった。佐藤家は本陣で、屋敷も大きい。近藤や幹部を広間に通し、彦五郎はりょうを呼んだ。
「沖田さんをこっちで寝かせなさい」
奥の部屋に布団を敷いて、沖田を休ませた。りょうは沖田が心配でたまらない。陣羽織を脱がせて、のぶが出してくれた綿入れを羽織らせた。
「薬、薬」
と、持ってきた薬箱から、良順から預かった薬を出して準備する。その様子を見ていた彦五郎が言った。
「かいがいしいねえ、りょう。まるで嫁いだばかりの嫁さんが旦那を世話しているみたいだよ」
「僕は、良順先生から言いつかっているんです!総兄ぃのこと!」
ムキになって反論するりょうの隣で、沖田は笑っている。
「沖田さん、どうです?この娘、うまい飯は作れそうにもないが、面倒は見てくれそうですよ。いっそ、嫁にもらってくれませんかね?」
彦五郎はなおもりょうをからかう。
「ひ、彦五郎先生、何言うんですか!?」
りょうは真っ赤だ。
「僕はもう、十分にりょうには面倒見てもらいましたよ」
沖田が答えた時、のぶが入ってきた。
「お前さん、いい加減におしよ!総司さんを休ませておあげな」
彦五郎は笑いながら、退散だ、と言って広間に行った。
「すいませんねぇ、総司さん、あの人ったら」
のぶは、沖田に粥をすすめながら言った。
「街道は寒かったでしょう?お粥、熱いから気をつけて食べてくださいね」
沖田は粥を少しすすって、
「懐かしいな、おのぶさんのご飯。あの頃は、いつもご馳走になっていたっけ」
佐藤道場に出稽古に来ていた頃、沖田はよく、佐藤家で食事をとってから戻っていた。その頃、居候同然に過ごしていた歳三と知り合ったのだ。その当時の沖田はよく食べた。歳三のおかずも食べたことがある。思い出して、沖田は笑った。
「総兄ぃ、どうしたの?」
りょうが聞いた。
「昔を思い出して……土方さんは好き嫌いが多くてね、いつもおのぶさんに叱られていたんだ。だからね、自分の嫌いなおかずを、僕の皿にすぐ乗せるんだよ。食べたふりして」
沖田の話を聞いて、りょうもくすっと笑った。
「ずるいんだ、父さん」
「だろう?」
そう答えて、沖田は箸を置いた。
「おしゃべりしていたら、お腹いっぱいだ」
沖田は悔しかった。これくらいの粥さえ、食べきることができなくなった自分が情けなかった。以前のように食べられたら、まだ戦うことができるのに……と沖田は思った。それを察したのか、のぶが言った。
「少しずつ、ゆっくりと増やしていけばいいんですよ。無理をしないで。若いんですから」
「ありがとう、おのぶさん」
優しいのぶの言葉に、癒される沖田だった。
「総司、疲れてるとこ悪いが、広間に来てくれねぇか?おめぇの昔の弟子たちが来てるんだ」
歳三が呼びに来た。一緒に奥に顔を出したのは、玉置良庵であった。
「りょう、元気そうじゃの」
「良庵先生、じゃなくって、お
良庵は、病で担ぎ込まれた幼いりょうを引き取り、新選組に入隊する時に、身元を確かにするために養父となった。りょうに医術や看護の基礎を教え、人としての生き方を教えた。この人なくして、今のりょうはあり得なかった。
「やあ、沖田先生、沖田先生だ!」
広間に出てきた沖田に、日野の農民たちは喜んだ。皆、天然理心流を近藤や沖田から学んだ者たちである。
「沖田先生、少し痩せたんじゃねぇか」
「病気は良くなったんか」
矢継ぎ早に質問されて、沖田は困った。近藤はかつての弟子たちに囲まれて上機嫌で、
「いやぁ、この沖田には、次の天然理心流宗家を継いでもらわにゃならんですからな」
などと言っている。歳三は、
「沖田はまだ病み上がりなので、酒は勧めねぇでくれ」
と言うと、沖田は、
「酒は飲めませんが、元気ですよ、ほら」
と、相撲の
近藤から依頼され、日野宿の農兵二十数人が、彦五郎と共に『
「土方さん、あとはよろしく」
と、沖田は奥に下がった。かなり胸が苦しかった。壁を手で探りながら、奥の部屋に戻った。
「総兄ぃ!!」
沖田の様子に慌てたりょうが沖田を支えた。良庵も手伝って、沖田を布団に寝かせた。
「だから、無理をしないでって言ったのに!」
りょうは沖田に言った。
「ほら、良庵先生、おっかないでしょう?いつも叱られるんですよ、僕は」
沖田は冗談を言った。苦しそうな息づかいだった。良庵は、沖田の病が聞いていたよりもかなり重いのだと悟った。
「診てしんぜようかの」
良庵は沖田の胸を診察し、言った。
「沖田さん、あんたの遠征はここまでじゃな」
「お義父さん!?」
りょうは、厳しい良庵の言葉に驚いた。
「これ以上、旅を続けると、途中で死ぬぞ」
良庵はズバリと言った。
「どうして?総兄ぃは、良くなってきていたんじゃないの?だから、旅を許されたって……あ!」
りょうは、その時、すべてを理解した。良順がなぜ旅を許したのか、歳三がなぜ、沖田を馬に乗せたのか……
わかったとたんに涙が出そうになって、りょうは席を立った。
「僕、おのぶさんにお茶を貰ってくるね」
患者に涙を見せるな、とは、亡き山崎の命令であった。
(総兄ぃは、総兄ぃは、もうすぐ死ぬ……だから、みんな総兄ぃのためにここまで……!)
涙があとからあとから流れた。おのぶがそっと近寄り、背を撫でた。
「沖田さん、あんた、解っとったのか……」
良庵が聞くと、沖田は頷いた。
「わかりますよ。自分のことですから。みんなに良くしてもらって、僕は幸せでした。ただ、りょうには、可愛そうなことをした……僕が回復していると思ってたみたいで」
良庵は言った。
「あの跳ねっ返りが、あんなに落ち着いて、人の苦しみや悲しみをわかるようになって、みんな沖田さんや歳三さんのおかげじゃ。新選組の皆さんに育ててもろうて、あの子も幸せもんじゃ。大丈夫。あの子は自分の役目をわかっとるよ」
良庵は、歳三に沖田の話をした。歳三もここから先は無理だろうと思っていたようだ。
その時、佐藤家に使いが来た。先に行かせていた隊からの伝言だった。近藤の顔色が変わり、隊の空気が一変した。
「急ぎ、出陣する!」
外は雨が降っていた。
「総司、江戸に戻ったら、しっかり療養しとけよ」
馬上から、歳三が言った。本陣の門の前で、沖田は、
「良い知らせを待ってます」
と答えた。
本陣の門前に、『誠の旗』が翻った。新選組の名は伏せており、甲陽鎮撫隊としての出陣なので、本来は誠の旗は出さない。だが歳三が、
「やっぱり俺たちには、この旗がなくっちゃ、士気があがらねぇ」
と言い、五郎作が歳三の脇で、旗を持った。りょうには、それが、歳三の沖田に対する心遣いなのだということがわかった。
「出陣!!」
沖田は、その旗が見えなくなるまで見送っていた。
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