第24章 雪の桧原峠
桧原峠は、会津と米沢を結ぶ街道の
翌朝、出立しようとしたりょうに、宿の女中が聞いた。
「あんた、具合が悪いのでねぇがね?峠を越えるのは無理でねぇだが?」
熱のありそうな顔をしていて、咳をしていたりょうを心配した。りょうは答えた。
「ありがとうございます。でも、早く米沢を抜けて仙台まで行かなくてはならないんです」
その会話を聞いていた、やはり行商らしい別の男が、
「仙台の先の港には、船がいくつも停まっていたよ。なんか、旧幕府の脱走兵たちだっていうから、恐ろしくて早々に街道を抜けてきたよ」
と言った。
「その船は、まだ仙台にいるのでしょうか?」
りょうはその男に聞いたが、
「さあ、詳しいことは知らないね。でももう仙台は政府軍に降伏してるんだから、いつまでもいることはできないだろうよ」
と答えた。そうだ。うろうろしていたら捕まる。父さんだってそんなことはわかっているはず……仙台を出たら、どこにいくんだろう……あのとき、ちゃんと聞いておけばよかった……りょうは感情に任せて、歳三と話そうとしなかったことを、今更ながら後悔した。すると、また別の旅人が、
「なんだか、蝦夷が島に行くらしいぞ。脱走兵がそんなことを話していた」
と言ったので、そちらを見た。
「えぞがしま?」
話だけは聞いたことがある。人がいるのは海の近くだけで、あとは獣しかいないところだって……年の半分は雪が降るところだって……
「蝦夷に新しい国を作るつもりだと、脱走兵の親玉が決めたそうだ」
そこまで聞いていたとき、先程の女中が、握り飯と簑を、りょうの目の前に差し出した。
「ほら、簑持っていぎなっせ。旦那さんに内緒であげる。雪が降りそうだがら、気をづげで行ぎらんしょ」
「ありがとうございます」
りょうは、話をしてくれた男たちと宿の女中に礼を言って外に出た。背中がゾクッとした。
(熱があるのかもしれない……でも、今日中に国境を越えて、綱木宿まで行ければ……)
そう自分に言い聞かせて、峠道に入った。まもなく、雪がちらついてきた。桧原峠は、標高1094m(21世紀現在)あり、陰暦9月の終わりは冬の初めだ。りょうは、渡してもらった簑を被り、もらった握り飯を食べた。ふと、のぶが作ってくれた握り飯を思い出した。冬の始めの頃だった。りょうが新選組に入ろうとした時、のぶは最後まで反対していた。数日間は口もきいてもらえなかった。出立の日、見送ってくれたのは、養父、良庵と、彦五郎だけだったが、彦五郎に握り飯を渡された。それはのぶが作ってくれたものだった。りょうは、それを泣きながら食べた。涙が混じって、その時の握り飯がとてもしょっぱかったのを覚えている。
(おのぶさん……元気かなぁ)
雪はだんだん酷くなってきた。午後になり、日が陰ったせいで視界も悪くなった。それに加えて、りょうは頭がぼうっとして、足元がよく見えていなかった。普段ならなんでもない峠道だったが、周囲が白く霞んでしまい、りょうはうっかり、道を外れてしまった。歩いても歩いても、人家のようなものは見当たらない。深い森に吸い込まれていくようであった。
(寒い……からだが重い……僕は……どこにいるんだ……)
軽いめまいがした、と思った瞬間、りょうのからだは、雪の斜面を滑り、小さな沢に落ちていた。背負っていた薬箱は外れ、雪の中に転がった。
「う……っ……!痛……!」
転げ落ちたときにどこかに打ち付けたか捻ったかしたのだろうか、激痛が走った。元気なら上れる高さの斜面だったが、今のりょうに動ける力はなかった。
(僕は……ここで死ぬのか……?)
一瞬、恐怖が頭をよぎった。体は痛く、鉛のように動かない。それに、寒さからなのか、だんだん眠くなってきた。
(父さん……総兄ぃ……ごめん……僕、もう歩けないよ……)
歳三の顔が、沖田の顔が浮かんだ。だが、それもやがて消え、りょうの意識は途切れた。
小半時ほどたった頃、峠道を足早に歩く一人の男がいた。手には銃を携えていた。男は雪の上に微かに残った足跡を追っていた。だが、その足跡も酷くなる雪で、ほとんど消されてしまい、見えにくかった。だが、男はその時、不自然に土が露出している箇所を見つけた。誰かが落ちたのかと、沢に下る斜面に目を凝らすと、木々の陰に、半分雪に埋まった黒っぽい固まりを見つけた。そして、その固まりに近づこうとしている動物の様なものも見た。
(あれは……人間や!いかん!山犬が寄っとる!!)
一匹ではないようだ。何か、そばに落ちている箱の様なものの臭いを嗅いでいる。男は、それが行商の道具箱であることを確信した。考えるより先にからだが動いた。山犬に狙いを定めると、引き金を引いた。
「バシュッ!」
と音がして、一頭の山犬がひっくり返った。続けざまに銃声が響き、もう一頭が倒れた。それに驚いたのか、他の山犬は逃げてしまった。
男は斜面を滑り降り、急いで雪に埋まりかけていた人間を引き出した。間違いなく、それは探していた当人であった。
「玉置、
薩摩言葉で大声で叫んだ。その男は、中村半次郎であった。
中村はりょうの様子が心配で、あとを追ってきたのだった。途中の宿場で、まだ子供のような行商の男が峠に向かったと聞き、りょうに違いないと、必死で歩いてきたのだ。中村はりょうの頬をたたいて起こそうとしたが、りょうはぴくりとも動かない。一瞬、最悪のことが中村の脳裏をよぎった。あわてて胸に耳を近づける。微かに心音が聞こえている。
(まだ息があっ!)
中村は自分の着ていた外套でりょうをくるみ、持っていた縄で自分にくくりつけた。銃とりょうの行商道具を抱えると、やっと斜面を登った。
(身体中が冷えきっちょっ!はよ屋根んあっところに
「こんバカ
中村が大きな声を出した。だが、りょうが気がつく気配はない。
(木こりん小屋とか、炭焼き小屋でなかどん、お堂んようなもんでもなかとな……はよせんな、けつん命が……)
中村が必死で、建物はないか、と歩いていると、小屋があった。灯りが漏れている。
(人がいる!)
中村は小屋の戸を叩いた。
「すまん、急病人や!休ませてくれんか!」
声に反応して、少し戸があいた。しかし、言葉は拒絶していた。
「その言葉さ、薩摩のもんだべ?おれは会津もんだ。おめえなら、泊めでぐれる宿はなんぼでもあっぺ。そぢらへ行がれだらどうだが?」
中村はむっとして、一瞬、刀に手をかけようとしたが、すぐに思いとどまり、
「連れん
と頼み込んだ。少しの間があき、小屋の戸が開いて、老人が出てきた。
「入らんしょ。おめえも、こっちさ、こー」
と、二人を中に入れた。
「そっちさ、寝かせ。火のそばに」
中村は、老人の言うとおりに、囲炉裏のそばにりょうを寝かせた。
「かたじけなか」
中村が素直に礼を言ったので、老人も少し表情を和らげたが、びしょ濡れのりょうを見て、また表情が固くなった。
「なんだってからだひゃっこいでねぇか!濡れだ
着物を脱がせる、と聞いて、中村は慌てた。
「い、いや、けつは……」
「なじょした(どうした)?」
老人が問うと、中村は言いにくそうに、
「けつはおなごや。着ちょっもんを脱がすなんてことはできん」
と答えた。老人は、病人が女だと聞いて驚いたようだった。だが、
「そだこど言っだって、着物さ着替えさせねば、このおなごのあんべぇ、悪くなっべ!おれのかかの着物さ、持っでぐっから、おめが着替えさせらんしょ」
「お、おいがか?おいにはできん!」
中村が顔を赤らめて拒否したので、老人は意外だ、という顔をした。
「へだな(くだらない)こと言うでねぇ、いい
言うが早いか、老人は奥から女性用の着物を出してきて、
「おめ、ちぃと、こらえてくなんしょ」
と器用に着物を脱がせる。中村は後ろを向いているが、気になって、
「大丈夫か?」
と聞いた。老人は笑って、
「さすけねぇ(大丈夫)。
と、手際よく着替えさせた。中村は会津の言葉がわかるわけではなかったが、老人が、中村を『情けないやつだ』と感じていることはわかった。ふん、と中村は顔を背け、囲炉裏に薪を放り込んだ。
りょうのからだはあちこち傷だらけだったが、老人は手慣れた様子で焼酎を吹きかけ手当てしてやっていた。
「ちっと、足さ腫れてんな。骨は折れてねえから、さすけねぇが」
と言った。老人は中村に向かって、
「おめら、会津のご城下から来たのかし?」
と聞いた。中村は、この老人を、口は悪いが信用できる者と判断した。
「おいは、薩摩ん中村ちゅう者や。けつは若松城でずっと、怪我人や病人ん面倒を看ちょった者や。疲れから風邪をこじらせたんを無理して国境を越えようとしちょったんだ」
と答えた。
「医者にしてはちいせいだなし。まだわらしだ……おなごがこったなりして
老人はりょうを見て呟いた。
「年は16だが、あん松本良順に認められた腕や。やがては腕んよか医者になっじゃろう」
中村がそう言うと、
「松本……良順かし?」
老人は、松本良順と聞いて驚いたのか、りょうを見た。
「わいは、松本良順を知っちょるんか?」
中村は、探るような目で老人を見た。老人は、
「い、いや、噂さ聞いだんだ」
と、あやふやな答えをした。中村は、
「まあ、よか。そのうちわかっこっじゃ。今はこいつが良うならんな」
と言って、りょうを見た。
老人は不思議そうに言った。
「おめえは薩摩の偉え侍で、このわらしは、医者の
中村は、どんな関係だと聞かれて、返答に困っていた。自分でも、なぜこの娘が心配なのかよくわからない。最初は、京の頃に御陵衛士から聞いた、『新選組の鬼、土方の、唯一の泣き所』であるという興味だけだった。初めて会ったのは、沖田総司が隠れ住んでいた家の前だった。必死で沖田を守ろうとするその姿に、役目を越えて惹かれた。もう会うこともないと思っていた矢先、西郷家の自刃現場で再会した。だが、その目は自分を憎む眼差しだった。命をかけて向かってくるその無鉄砲さに閉口しながらも、なぜか助けてやりたい気持ちになってしまう……
そんな中村の気持ちを見越すように、老人が微笑んで言った。
「おめの顔さ見てっと、良ぉぐわかる。このわらしさ、めんこいんだべし」
中村はドキッとして、
「そ、そげんこつはなか!」
と反論したが、そんな顔に見えたのかと、少し恥ずかしくなり顔を背けた。
すると、りょうを注意深く見ていた老人が、大きな声を出した。
「おい、このわらし、震えてんべ。おれのはんきり、おっかぶしてやれ!」
老人が綿入れを出してくれたので、中村はりょうにかけてやったが、りょうの震えは止まらない。
「こりゃ、からださ、もっと暖めねばなんね!からださすってやれや!」
老人の声にせかされ、りょうのからだを中村はさすってやるが、りょうは苦しそうな息をして、震えている。唇がうっすらと紫ががっていた。いわゆる、低体温症の症状であった。
「こりゃ、今晩が山かもしれねぇ。おめえ、わらしの薬箱、開けてみっせ。なんぼか薬ぐれえあるべ!」
中村は老人の言葉に従い、りょうの行商の箱を開けて中の物を出した。中からは、例の『
(やっぱい土方ん娘やったんか)
しかしそんなことを気にしている場合ではない。とりあえず何か効きそうな薬を飲ませなくてはならない。荷物には、少ないが、漢方薬も入っていた。中村は、その中から乾燥した生姜の入っている袋を取り出した。からだを暖めるには都合がよかった。老人も、いいものを見つけた、とそれを細かくして白湯に混ぜ、片栗でとろみをつけた。その手際の良さに、
「手慣れちょるんじゃな」
と中村が言うと、
「昔、よくこさえてたんだ。少し砂糖せぇっと(入れると)美味えげんじょなぁ」
と老人は言った。その言葉に、中村は、
「砂糖か?砂糖ならあっど」
と、外套の中から、黒砂糖のちいさな塊を出した。
「こっちに来っとき、もってきちょったど。こいでよかか」
中村は指で塊を潰し、湯呑みの中にいれた。
「薩摩の黒砂糖か……いっぺぇもうげだんだべな」
と老人が呟いた。中村は、その言葉に、老人はただ者ではないと感じたが、今は一刻も早く、暖かいものをりょうのからだに入れねばならなかった。だが、意識のないりょうが普通に飲むはずもない。困っていると、老人が、口を指差していた。
(口移しで飲ませっとな!?)
中村は迷っていたが、りょうの苦しげな顔が、それを消した。中村はりょうの上半身を抱き起こした。口に薬を含み、りょうの顎を上げ、口を少し開かせた。その唇に触れ、薬を移したとき、中村は初めて自分の気持ちに気づいた。
(わいが……愛しか……!)
りょうが、それをコクッと飲んだのがわかった。りょうは一度、うっすらと目を開けたが、またすぐに目を閉じた。
りょうの震えが一向に改善しないのを見て、老人はある提案をした。
「おめえ、人肌で暖めてみっせ。んだらば、震えさ止むかもしれねえ」
中村は、老人の言葉に顔を赤らめ、
「そ、そげんこっがでくっか!」
と声を出した。
「したども、わらしの命にはかえられねえべ?おれが暖めるよりおめえさ暖めたほうが、わらしもええべ。おれは奥で仕事してっから……」
老人は、今度は真面目な顔をして言った。他に寒さを和らげる方法がなければ仕方ないのだ。
「わかった」
中村は覚悟をきめた。老人は、囲炉裏に薪を放り込み、さらに火を強くした。そして、奥にある部屋に引っ込んだ。
中村は軍服を脱ぎ、シャツ姿になって、りょうの隣に横になった。一応、護身用に銃を手が届くところに置いておいた。りょうを懐に抱き、外套と老人が貸してくれた綿入れ半纏を掛けた。
(わいを決して死なせはせん。必ず助けてやっど!)
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