第56章 大和守安定のゆくえ
それは遡ること、鉄之助とりょうが箱館を出る命令を受けた日の夕刻、歳三は安富から、仙台より『
「銀の兄たちが……?」
安富は、島田に依頼していた名簿の草稿を歳三に見せた。隊士の増減もあり、一度、新選組の名簿を作り直そうとしていたのだ。『仙台ヨリ脱走後』と書かれた名簿の中に、
「田村一郎、同録五郎」
の名を見た歳三は、ふたりを連れてくるように安富に言った。
まもなく、添役の相馬と共に、ふたりの若者がやってきた。ふたりともかなりやつれ、ボロボロの衣服を着ていた。ふたりは歳三の前に平伏した。
「一郎、録五郎、久しぶりだな」
歳三が言うと、田村一郎が、
「年明けにはこちらへ参っておりましたが、保身だけしか考えていなかった我が身の恥ずかしさに、土方隊長にご挨拶も出来ませずにいたこと、大変申し訳ございませんでした!行くところもなく、新選組のみなさまの元に身を置かせていただいておりました……」
と、頭を下げたまま答えた。
「沢さんが面倒みていたようです。賄いの者たちと共に働いていました」
と、相馬が言った。歳三は、やつれきったふたりの元部下を眺めた。仙台で離脱し、故郷に戻ったと聞いていたのだが、その暮らしは決して楽ではなかったのだ、と容易に推測できた。
「……銀には、会ったのか?」
歳三の問いに、ふたりは驚いて顔を上げたが、ふたりとも首を横に振った。
「とても、顔を合わせられるものではありません。聞けば、銀之助は榎本総裁の元で小姓として務めており、陸軍隊の春日隊長さまに可愛がられて養子縁組をしたとか……今更、どのツラ下げて、兄であるなどと言えましょうか」
と録五郎が答えた。
「我ら兄弟は、蝦夷への渡航に臆し、新選組から逃げ出したのです。薩長を真正面から受け止める覚悟を持った銀之助にとっては厄介者でしかありません。この後は、下働きでも何でもいたしますので、屯所の片隅にでも置いていただければ幸いです。まだ、少々刀も使うことができます。戦の折りには真っ先に敵陣に斬り込む所存でございます」
と一郎が言った。
ふたりの話をじっと聞いていた歳三だったが、相馬の方を見ると、
「主殿、弁天台場の人員は足りているか?」
と聞いた。相馬が、
「少し増えましたが、これからのことを考えると、多いに越したことはありません。それと、島田どのですが、気の合う古株が少なく、最近は元気がないようで……」
と答えると、歳三はニッと笑った。
「聞いての通りだ。魁の元気は、全体の士気に関わるので、古参の助けが必要らしい。田村一郎、田村録五郎、新選組隊士として弁天台場に赴き、島田の補佐をせよ。すぐにだ。いいな!?」
驚いたのはふたりであった。
「た、隊長……それは……?」
「悪いが、俺は今、新選組の隊長じゃねぇ。元桑名藩士の森どのが新選組を束ねている。俺の推薦と言うことで、おめぇらは雇ってもらえるだろう。会津で指図役を務めたほどの一郎だ、箱館でも励め。そして、いつか、銀にそのことを伝えろ。きっとあいつは喜ぶ」
それを聞いて、ふたりはまた、床に頭がつくほどひれ伏した。嗚咽の声が漏れてきた。
「このご恩、決して忘れはいたしません。最後まで、新選組隊士として、弁天台場の守りに命をかけます!」
一郎が言うと、歳三は頷いて部屋を出た。
田村一郎と弟の録五郎は、その後、弁天台場で隊士としての役割を全うしたようだ。銀之助と再会したかどうかは、定かではない。
それから幾日か後、遅咲きの桜も、もうだいぶ散っていた。歳三は、箱館病院に来た。その手には、刀が一振、握られていた。
「八郎どの、起きているか……?あぁ、無理するな」
伊庭はその声に、ゆっくりと顔を向けた。
「歳さん……ざまぁねぇな、この体……出陣か?」
陣羽織を着た歳三を見て尋ねると、歳三は頷いた。
「二股口だ。敵は、今度はかなりの数らしい」
「良さんも連れていくのか?従軍医師として……」
伊庭に聞かれて、歳三は一瞬、顔色が変わったように見えた。
「最初はそのつもりだったが……五稜郭で待機させることにした。そっちにも怪我人が入るんでな」
歳三の言葉に、何かあったことを伊庭は感じていた。
「おいらの体がもう少しまともに動けばなあ、良さんひとりくらい守れるんだが……はは、そういえば、刀もなかったっけ……」
伊庭の刀、『
「父上から頂いた『安定』だ……あれの代わりはない……」
伊庭は悔しそうに言った。
すると、歳三は持ってきた刀を差し出した。
「次に戦うときはこれを持っていけ。これも『大和守安定』だ。伊庭軍兵衛には及ばないが、元の持ち主も、相当の使い手だ」
と、歳三は言った。伊庭は不思議そうに、その鞘を眺めた。
「……どうしたのだ?この安定は?これはもしや……」
伊庭は歳三を見た。歳三は伊庭を見つめ、そして慈しむような目で刀を見つめた。
「これは俺の大切な弟分の刀だ。りょうが必死に守って会津まで持ってきた。これを受け取ったとき、俺はあいつの声を聞いた気がした……『やっと追い付いたよ、土方さん』ってな……本当なら誰にも渡したくはねぇ……!」
と笑った。
「沖田さんの刀……!良さんが言っていた……そんな大事な刀、貰うわけにいかねぇよ……!」
伊庭は断った。
「八郎どのは、これの価値をわかる男だ。俺はいつ死ぬかわからん身だ。この刀がどこかで、価値のわからんやつらの手に渡るのもしゃくだ。この先、伊庭八郎の刀として使ってもらえれば、総司も本望だろう」
歳三はそう言って、刀を抜いた。伊庭はそれをじっと見つめると、
「良さんに渡さなくてもいいのか?沖田さんの形見として……良さん、惚れていたんだろう?」
と聞いた。すると、歳三は微笑んだ。
「……知っていたのか。大丈夫だ。りょうはもう、総司の死を乗り越えた。総司はあいつの中で、揺るぎない存在となっている。この刀は必要ない」
歳三の話を聞き、しばらく伊庭は目を閉じていたが、
「そうか……わかった。ありがたく受け取らせていただく」
動く右手で刀を受け取ると、胸に抱いた。
(……これが、俺の最後の刀だ……!)
伊庭の嬉しそうな顔を見て、歳三は安心したように頷いた。すると、
「歳さん……あんた、父親の顔してるぜ……」
と、伊庭がからかった。歳三は、
「何をわかったようなことを。独り身のくせして」
と笑った。まもなく、歳三は隊を連れ、二股口に向かった。
その歳三と入れ替わるように、りょうが伊庭のもとを訪れた。
「なんだ、良さん。今歳さんが帰ったんだぞ……」
りょうは、不満そうな顔をしていた。
「昨日は、二股口の後方部隊と一緒についていってもいいって言ってたのに、今日になったら五稜郭で待機だって。ほんとに勝手な人だ!」
伊庭は、その言葉の響きが今までと違うことに気がついていた。
「歳さんが心配か?大丈夫だ。良さんの親父は、不死身だよ」
「うん」
今までは、歳三に近付きたくてもできないもどかしさが態度や言葉に現れていた。でも、今は父親を案ずる子供としての、素直な心が言葉に出ていた。伊庭は、そんなふたりを羨ましいと思った。
「伊庭さんにお客様だよ、東京から。五稜郭にいらしたので、お連れしたんだけど……」
りょうが言うと、後ろから、懐かしい人物が現れた。
「若!大ケガをされたってぇから……あっしは心配で心配で!」
「鎌さん!!」
それは、伊庭の少年時代から何かと世話を焼いてきた、上野の料亭『
「小太郎さんのこと、お聞きしましたよ。惜しい方が逝っちまいやしたね……」
鎌吉は悔しそうに言った。
「この若に負けないくらい、賢くて、粋なお方でした。新しい国にはなくてはならぬお人だってぇのに……」
鎌吉はりょうにそう言った。りょうも頷いた。すると、伊庭が、
「いいさ。俺も……そのうち追いかける」
と呟いた。とたんに、
「ダメ!伊庭さん!」
「ダメですよ、若!」
と、りょうと鎌吉がほとんど同時に言った。伊庭は目を丸くしてふたりを見た。りょうと鎌吉は顔を見合わせた。
「若にはまた、あっしの料理を食べてもらわなきゃ!」
鎌吉が言うと、りょうも、
「そうだよ伊庭さん!僕が治すから!」
と言った。伊庭は、
「……頼もしいな、ふたりとも……」
と笑った。
「鎌さんは、板前のくせに、俺の戦について回って……箱根で俺が左手切り落としたとき、担いで医者まで運んでくれたんだ……あ~、鎌さんのしるこ、食いてぇな~……!」
そんな伊庭を見て、りょうは、心からくつろいでいる、と思った。伊庭にとって、鎌吉とはそういう存在の人なんだ、と。
「またついて来ちまいやしたよ、伊庭八郎に」
鎌吉は、包むような優しい眼差しを伊庭に向けた。
「しかし、坊っちゃん、お若いのに、お医者の先生ですかい?大したもんですなぁ」
鎌吉はりょうを見て感心していた。伊庭はクスッと笑い、鎌吉に耳打ちした。鎌吉は驚いて、
「えっ!?坊っちゃんでなくて、嬢ちゃん!?こりゃまた、失礼をいたしました!知らぬこととはいえ……」
と、頭を下げた。りょうは、
「いえいえ、気にしないでください。僕はずっと男として生きてきたので、その方が楽なんです」
と笑い、鎌吉は、頭を掻きっぱなしだった。
このあと鎌吉は、伊庭を最期まで看護し、その遺品を東京の菩提寺に持ち帰ったらしい。その時に、もしかしたら歳三の渡した刀もあったかもしれない。伊庭八郎の愛刀『大和守安定』として……
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