第1章 武士の子
りょうが生まれたのは、武蔵国にある、海に程近い村であった。りょうの生まれた年に、初めて黒船が日本にやって来た。太平の夢を貪っていた日本は、大騒ぎになった。翌年にはアメリカと条約が結ばれ、数年後には、りょうの住んでいたところの近くに、港が開かれることになった。大人たちは、常に、『攘夷』とか『開国』とか言う言葉を口にしていたが、子供たちには、そんなことは関係なかった。りょうも、他の子供たちと同じように、寺子屋に通い、かくれんぼや石蹴りで遊ぶ、普通の女の子であった。問題なのはその気性で、理不尽なことには断固従わない。
「全く、あなたのそういうところは、父さまそっくりですよ」
りょうの怪我の手当てをしながら、うめはいつもそう言って笑っていた。
りょうは、母の笑顔が大好きであった。でも、父について詳しいことを、うめは教えてくれなかった。ただ、父親は『歳三』という名前で、武士である、とだけ話してくれていた。
5歳の頃、りょうは押入れの行李の中に、一振りの刀を見つけた。最初は刀だとは思っていなかった。その袋があまりにも美しかったので、興味を持ったのだ。
「母ちゃん、これなあに」
りょうは、母親のうめに聞いた。うめは、
「これは遊び道具ではありません。これはあなたのおじいさまの形見です」
と言って、りょうの手からその包みを取ると、懐かしそうに胸に抱いた。
「おじいさま?」
りょうは、母を見つめた。うめは、自分が母親から聞かされていたことを、りょうに話して聞かせた。
その刀は、『
『どんなことがあっても、この刀は手離すな』
と遺言された。うめは刀の価値はよくわからなかったが、歳三と暮らしていた頃、彼にその刀を見せたとき、
『名刀じゃねぇか。大名だってなかなか持てねぇって聞いてるぞ。うめの親父どのが、本物の武士だって証拠だ。これは誰にも見せるな。大切にしろ』
と言われたので、それ以来、大切にしまってあったのだ。
「あなたの父さまは、武士になると言っていた……」
と、うめが悲しそうな顔をした。すると、りょうが、
「りょうが武士になったら、この刀をくれる?」
とうめに聞いた。幼い子供の他愛もない発言であったのだろうが、うめは、真剣な眼差しでりょうを見つめた。
「本気で、武士になる気があるのですか?」
うめの真剣な顔に圧倒されたりょうは、母に喜んでほしくて、思わず頷いた。本当は、
(母ちゃんにあんな悲しい顔をさせる父ちゃんになんか、刀をわたすもんか!)
という気持ちからの言葉であった。この日を境に、うめは、りょうを男児として育てていったのである。
りょうは、利発な子供だった。書も上手で、寺の僧侶は、このまま僧にさせることを勧めたが、うめは、
「この子は、武士の血を引く子だから」
と、断っていた。うめは、呉服問屋から縫い物を預かって仕立てる仕事をやっていた。うめの仕立物は出来がいいと、よく、問屋の番頭が言っていた。しかし、暮らしは楽ではなかった。りょうは思った。
(父さんは、なんで僕たちのところに来ないの?なんで、母さんだけがこんなに大変なの?父さんは武士だって、母さんは言ってるけど、どんな人なんだろう……こんなに母さんを苦しめるなんて、ひどい……!)
りょうが6歳の春、うめが流行り病に倒れた。病は重く、もう長くないと医者に言われた。子供にはどうすることもできない。近所の者も、食事を運んでくれたりするが、感染るのを嫌って、近づかなかった。
ある日、うめは、押入れの行李を出すように、りょうに言った。その中には、例の脇差が入っていた。
「りょう、これから私の言うことを、よく聴くのです」
うめは、りょうに話をした後、最後の力を振り絞って、文をしたためた。日野宿の、佐藤彦五郎宛てであった。
その数日後、うめは息を引き取った。
うめは、近所の寺に葬られた。その寺の僧は、りょうに勉学を教えていた者だ。僧は言った。
「お前は、どうしても武士になるのか。ここに残って、母の菩提を弔いながら、暮らす気はないのか。もし、僧になるのなら、私がお前の親代わりになっても良いのだぞ?」
りょうは、少し迷った。僧になる気はさらさらなかったが、勉学には興味がある。母は、自分が死んだら日野へ行け、と遺言した。子供のりょうにとって、見知らぬ土地へ一人で行くのは、気が進まぬことであった。
そんな時、葬儀に立ち会ってくれた同じ長屋の大人たちが話しているのを、りょうは聞いた。
「おうめさんも、苦労ばかりして、まだ若かったのに、気の毒なことだな」
(母さんの話だ)
りょうは、障子の陰に隠れて、聞いていた。
「まったく、ひどい話じゃないか?おうめさんは、お腹に子供かかえたまま、男に捨てられたんだそうだよ」
「何だって?旦那は、亡くなったんじゃないのかい?」
「違うよ、あの位牌はお父っつぁんとおっ母さんので、旦那のはないよ。あたしゃ、おうめさんに仕事持ってきてた、呉服屋の番頭から聞いたんだ」
その番頭は、うめが働いていた大伝馬町の呉服問屋を知っていて、うめの相手が、一緒に働いていた男だということを話したらしい。
「多摩の御大尽だかなんだか知らないけどさ、金持ちの商人の娘と見合い話ができたって、おうめさんと別れたらしいんだよ。ひどい男だろう?」
「金をやるから別れろってか…。可哀想になあ」
「多摩じゃ、結構名の知れた豪農らしいよ。苗字もあって、ひじかた、とかいうんだよ」
そこに、寺の僧が来たので、大人たちの会話が止まった。
「これこれ、そんな話、子供のいるところでするではないぞ」
僧は、そのまま向こうへいってしまった。大人たちも、話をやめ、その場を離れた。しかし、りょうは、障子の陰にじっと座っていた。涙がポロポロ流れ、床に落ちた。
(多摩のひじかた……母さんが言っていた人だ。『ひじかたとしぞう』……許せない!母さんを捨てた……母さんの仇!!)
りょうは、僧に言った。
「お坊さま、僕は武士になる。だから、母さんの遺言通り、日野へ行く。多摩の土方歳三に会って、僕は母さんの仇を討つ!」
その数日後、寺に母の遺品を預け、りょうは一人で日野へ旅立った。背中の荷物には、母が絶対に離すなと言った、包みが一式。中には、大切な脇差が入っていた。
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