第1章 神奈川宿にて

 明治元年の10月半ば、りょうは神奈川宿の寺の前に立っていた。薄汚れた着物で、行商の荷を背負っている姿を怪しんで、寺男が住職を呼んだ。住職はりょうを見ると、まるで来ることをわかっていたかのように微笑み、言った。

「何をしている、りょう。ここはお前の母の墓があるところではないか。早く母に、無事に戻ったことを報告するがよい」

その言葉に、りょうはあふれる涙が止まらなかった。

「住職さま……ただいま……!」


 それからひと月近くが過ぎた。りょうは今でも、折浜の港でのことを思い出すと、胸がどきどきする。あの時は、精一杯平静を装っていたが、見送る中村の顔を見続けることができずに、船の中に逃げたのだった。

『薩摩に来んか。おいと、一緒に……』

中村はりょうにそう言った。

(あれは、嫁に来い、ということなのか?)

このとき、りょうは中村に妻がいることを知らない。この時代、15や16で嫁に行く娘は多かったが、男として育てられた上に、その母に早く死に別れ、妻のいない良庵医師や、新選組など、ほとんど男所帯で生活してきたりょうには、『夫婦めおと』というものがよくわかっていなかった。


 新選組幹部は『休息所』に女性を住まわせている者が多かった。だが、彼女たちの多くは元芸妓であり、永倉に言わせれば『お互い割りきった関係』だったので、りょうは、それを『夫婦』だとは思っていなかった。原田のようにきちんと祝言をあげることが、『夫婦』になることだと思っていた。局長の近藤に至っては、江戸にちゃんと祝言を上げた妻がおり、京の深雪太夫やお孝は、あくまでも『愛人』や『妾』と呼ばれていた。『夫婦』になるには、『祝言』が必要で、そのためには何らかの『求婚』が必要なのだと、りょうは思い込んでいた。会津で、白虎隊の篠田儀三郎と西郷たえという恋仲のふたりを見ていたりょうは、儀三郎が西郷家に『求婚』の挨拶をする予定だったことを知っていた。また、父の歳三は、母と故郷で祝言をあげるつもりだったと聞いたことがあった。


 だから、水商売でない娘に一緒に故郷に行こう、という言葉は、りょうにすれば『求婚』だとしか思えなかったのだ。


 もちろん、りょうは沖田を忘れたわけではなかった。沖田は生前、歳三を通して、りょうにちゃんと『求婚』してくれたのだ。沖田が自分を必要としてくれていたことを実感し、りょうは気持ちの整理をつけられたのだ。りょうの心の中の一番大切な場所に今でも沖田はいる。


 だが、そんなりょうの心を突然かき乱したのが、中村半次郎だった。敵方であるりょうを助け、怪我を押してまで、船に送り届けようとしてくれたのだ。船に間に合わず、途方に暮れるりょうをなぐさめ、横浜に戻る手配までしてくれた。そして、突然の…………それが計算ならば、相当、娘の扱いに慣れた者であろう。


 りょうは、中村を信じたかった。中村は、他の薩長の人間とは違うのだ、と思いたかった。中村は、もう軍には加わらないと言っていた。この戦が終わったら、もう一度会いたい……お互いが新選組でも、薩摩軍でもない存在となって出逢いたい……りょうは、そんなことを願っていた。


 蝦夷に渡ることは、半ば諦めかけていた。蝦夷までの船賃は、50両を超えていた。そんな大金はりょうにはない。何度か、港に行って聞いてみたが、もう、蝦夷に渡る商船も、貨物船も見付けられなかった。蝦夷の海域は冬になると大荒れになる。危険を侵して船を出す者はいなかった。


 寺に世話になっている間、りょうは寺に来る子供たちに、読み書きを教えていた。自分も幼い頃、この寺で読み書きを覚えたのだ。その他、手紙の代筆なども手伝った。まだ字の書けない庶民は多く、寺に頼まれるものはそれなりにあった。住職は、りょうが昔から手習い上手なのを知っていたので、りょうに任せるのが常だった。


 ある日、一人の老女が寺を訪れた。横浜の港で人足をしている孫息子に、冬の着物を届けたいのだが、自分は足が悪くて行けないので、誰かに届けてほしい、というのだ。

「りょう、頼まれてくれるか?」

と住職に言われて、りょうは引き受けた。


 神奈川宿から、海を挟んだ対岸に、横浜の港はあった。本当なら、神奈川宿が開港の対象となる港であった。幼い頃は、まわりの寺はみな、外国の領事館として使われていた。宿場の子供たちは、外国人を見慣れていたくらいだ。しかし開港したのは対岸で、そのうちに外国人たちも少しずつ横浜に移っていった。明治初頭の横浜は、外国人向けの建物がどんどん建てられ、賑やかになっていた。


 港について目的の人物を待っていると、がっしりした色の黒い、力仕事の似合う若者がやって来た。

「俺が小吉こきちだが……」

若者はりょうを見て、思い出したように大きな声を出した。

「お前、『子ザル』じゃないか!こっちに帰っていたのか?10年ぶりくらいか?」

その声にりょうは驚いて相手を見つめた。


 『子ザル』

とは、りょうの幼いときのあだ名であった。小さくてちょろちょろして、木登りが得意だったので、男児たちからそう呼ばれた。りょうはそのあだ名は覚えていたが、目の前の人物が思い出せなかった。すると、

「俺、俺。大将だよ。お前と一緒に、青木の宿のやつらをやっつけたじゃないか!」

「あっ!思い出した!」


 それは、りょうが大坂から江戸に戻った頃、歳三に語った『武勇伝』である。幼い頃、りょうの住んでいた神奈川本陣と、隣の青木本陣は、滝ノ橋の東西に分かれていた。子供たちの間にも、しばしば喧嘩があり、あるとき神社で子供同士の力比べになった。大きな子達に混じって、りょうは神社の木に登り、やって来た相手に栗のいがを投げつけたのだ。まるで猿みたいだ、と『子ザル』とあだ名された。もちろん、あとで母のうめに相当叱られたのはいうまでもない。その時の仲間の大将が、この、小吉だったのだ。


 「すっかり変わっていたから、わかりませんでした」

と、りょうは言った。

「お前は変わんねぇじゃん。すぐわかったよ」

と小吉は笑った。そう言われたりょうの方は、複雑な気持ちだった。

(10年前から成長なしか……?)

「あんときは、お前の栗のいが攻撃がすげぇ役にたってよ。あれで敵の大将が怯んだんだ」

そう言われて、なんだか恥ずかしいりょうであった。小吉の祖母に頼まれた着物を渡すと、小吉はありがたそうにその着物を受け取った。

「おいらのおとうは、お台場の工事で亡くなっちまって、おっかあも、流行はやり病で逝っちまって、今はおばあだけだからな。ありがてぇな。りょう、頼まれてくれて、ありがとうな」

小吉は、今、二日後に横浜を出港するイギリス船に、荷物を運んでいるのだという。

「サンライズ号っていうんだ。蝦夷が島の箱館まで行くんだぜ。今年最後の蝦夷行きの船だな」

それを聞いたりょうの目が輝いた。

「蝦夷!?二日後に!?」

りょうは小吉に歩み寄った。

「小吉さん、僕、お願いがあります!」


 



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