第6章 名前のない墓標

 慶応3(1867)年12月12日、新選組は二条城に向かった。しかし、薩長との対立を避け、穏便に済ませたい意向の徳川慶喜は、会津、桑名両公とそれぞれの家臣と共に、その夜には大坂城へ下ってしまった。老中から公式に二条城警備を依頼されていた新選組は、そのまま二条城にとどまることを主張したが、そこには慶喜に直に二条城警備を申し渡された水戸藩がいて、新選組との共同警備を拒否した。近藤が水戸藩の指揮下でもよい、と譲ったが、水戸藩は聴かなかった。結局、14日には、目付の永井尚志と共に、大坂天満宮に下ることになった。


 そして、この日、正式に新選組を新遊撃隊御雇とする通達が出たが、もちろん、近藤と歳三は、即拒否したのであった。


 大坂天満宮に布陣していた新選組に、慶喜から伏見奉行所警備の命が出たので、先発に山崎と吉村を差し向け、16日には、伏見奉行所に到着した。しばらくは、伏見奉行所が、新選組の屯所となる。


 新選組が徳川慶喜に振り回されている間、沖田とりょうは、近藤の休息所にいた。あの日の事件以来、沖田は刀を取ろうともせず、何も話そうともせず、ただ庭を眺めているような日々を送っていた。そんな沖田が、突然、思い出したように言った。

「りょう、光縁寺に行かないか」

りょうは、寒いからダメだ、と最初断ったが、近藤の妾であるお孝が、駕籠で行けば大丈夫やろ、と言ったので、渋々行くことにした。


 りょうは、沖田にどう接して良いのか、とまどっていた。それは、あの日、歳三が沖田を殴ろうとしているのを見て、咄嗟に沖田を庇った、自分の行動が原因であった。あの日の歳三の怒りは当然だった。歳三が悪いわけじゃない。だが、りょうの目には、歳三は沖田を傷つけようとする者にしか、見えなかった。

(僕は、あの時、総兄ぃの体が心配で庇ったんじゃない。あの時、父さんから総兄ぃを守りたくて、庇ったんだ。僕にとって、総兄ぃは……)

それまで、二人きりで部屋にいることに、なんの抵抗も感じなかったのが、側にいるだけで、胸が苦しくなる。薬を渡す時に、手が震えることもあった。それを見た山崎は、りょうが沖田に殺されそうになったことを今になって怖がっているのかと勘違いし、

「良蔵、もし、総司と行くのが怖かったら、鉄と銀も一緒につけるで」

と心配した。りょうが、沖田が怖いのではないと話すと、一応納得はしたようだが、時々誰かを見に行かせるから、と言ってくれた。

「山崎先生、このことは、土方先生には言わないでください」

とりょうは山崎に頼んだが、今ごろは、歳三の耳にも入っているだろうと思っていた。


 駕籠やが迎えに来たので出てみると、そこには鉄之助の姿があった。

「鉄、どうしたの?」

意外な迎えに、りょうは尋ねた。

「永倉先生から、お前たちを守れって言われているから……俺じゃ頼りにならないかもしれないけど」

鉄之助は、どうせ、要らないとか言われるんだろう、と思っていたが、りょうは、

「ありがとう。鉄が来てくれてよかった。藤堂さんのお墓参りに行くんだ」

と言ったので、鉄之助には意外だった。

「沖田先生に、これ、永倉先生から渡された」

と、鉄之助は文を渡した。りょうは、あとで渡そうと、文を懐に入れた。沖田は駕籠で、りょうと鉄之助は、歩いて光縁寺に向かった。途中、りょうは鉄之助に、

「沖田先生と二人だと、だめなんだ」

と呟いた。

「え?」

鉄之助は聞き返した。

「苦しいんだ。こんなこと今まで無かったのに。鉄がいてくれて助かった」

りょうは、ほっとしたように鉄之助に言った。

(こいつ、沖田先生のこと、本気で……)

なんだか無性にイライラしてくる鉄之助だった。

「何変なこと言ってんだ、お前、男だろ!?しっかりしろよ!」

そう鉄之助に言われて、りょうは、はっとした。

「そ、そうだよな。僕は男なんだから、しっかり沖田先生を看病するために、残ったんだから」

(僕は、何を考えてんだ、本当に。鉄に気づかれてしまうじゃないか。どうかしてるぞ、良蔵!僕は、男だ)


 光縁寺。山南敬助の墓の隣が、藤堂の墓だった。ふと、その側に、別の墓があることに、りょうは気づいた。木の墓標が建っている。まだ、そんなに古くない。表には何も記されておらず、裏側に名前のようなものと、日付とが記されていた。日付の方は、『慶応三年四月廿六日』となっていた。

「『沖田氏縁者』……?沖田先生のご身内ですか?でも身内なら名前があるはず……」

同じように墓に気づいていた、鉄之助が聞いた。沖田は、少し考えていたようだったが、その墓を見つめたまま答えた。

「この人は、僕の妻になるはずだった……僕が……殺したんだ」

その瞬間、りょうが持っていた水桶を落とした。二人の足元に水が掛かった。

「冷てえ!!何してんだ、良蔵!」

と、鉄之助がりょうを見ると、りょうは呆然とした様子で、沖田を見ていた。

「良蔵!!」

と、もう一度、鉄之助は大きな声で呼んだ。すると、我にかえったりょうは、

「ご、ごめんなさい、僕……」

と言って水桶を拾おうとした。が、その手は小刻みに震えている。

「僕、もう一度、水を汲んでくるから」

と顔を背け、行ってしまった。沖田は、そんなりょうの後ろ姿を見ていた。鉄之助は沖田に詰め寄った。

「なんで、あんなことを言ったんですか?先生!あいつの前で!」

それを聞いた沖田は、

「鉄之助……君、気づいているのか?」

と鉄之助の方を見た。

「この前、先生と良蔵が話しているのを聞きました。良蔵は土方先生の子供で、女なんでしょう!?なんで女が新選組にいるんですか?土方先生が呼んだんですか?」

鉄之助が感情に任せて捲し立てると、沖田は、

「違う。この秋まで、土方さんは知らなかった。良蔵が自分の子供であることも、女であることも!鉄之助、他の隊士には言うなよ。二人が処分されるようなことになってしまってはまずい」

と言った。それを聞いた鉄之助は、

「そこまであいつのこと気遣うんなら、どうして女の人のことなんて言うんですか?あいつは沖田先生に惚れているってのに!先生だって、知っているんでしょう?毎日、あいつと一緒にいるんですから!」

と沖田を睨んだ。

「鉄之助……」

沖田は、鉄之助を優しく見つめた。鉄之助の感情はまだ高ぶったままだ。

「この前だって、命がけで沖田先生のこと庇ったり、先生と二人だと苦しいだとか言ったりして……今だって、水桶落として……!」

鉄之助は悔しかった。何故かは分からないが、りょうが悲しんでいるのがわかるだけに、悔しかった。そんな鉄之助の様子を見て、沖田は言った。

「鉄之助……君は、りょうが好きなんだね」

鉄之助は真っ赤になった。

「あいつを放っておけないだけです……!今は、まだ……」

うつむく鉄之助に、沖田は言った。

「鉄之助、今は、りょうを黙って見守っていてくれ、頼むよ。いつか、りょうが自分から打ち明けるときまで……僕が……いなくなっても」

「沖田先生、何言うんですか!……そんなこと言ったら、あいつ怒りますよ」

と、鉄之助は言った。沖田は、

「はは、そうだったね。りょうはおっかないからな……いや、僕が隊務復帰したら、りょうを見守ることができないから、その時は鉄に頼む、という意味だよ。大丈夫。病気は治るから」

と言い直した。だが、沖田の病気が進行していることは、小姓たちにも、なんとなくわかっていた。沖田に頼む、と言われて、頷かざるを得ない鉄之助であった。


 りょうは、ぼうっとしたまま、井戸から水を汲み続けていた。水桶から水が溢れてまわりを濡らしていたが、りょうは気づかなかった。

(総兄ぃの……奥さまになるはずだった人……総兄ぃに、そんな大切な女性ひとがいたなんて……そうだよね。僕は、総兄ぃにとって、ずっと年下の弟分で、ただの弟子なんだもの……やっと、この苦しさの訳がわかった。僕は……総兄ぃが、好き……!)

「おやおや、そないに水をいっぱいに入れたら、重おして持てへんのちゃいますか?仏さまも、お水多すぎては寒がりますえ」

その声で我に返ったりょうが振り返ると、良誉上人が立っていた。

「良誉上人さま!す、すいません。僕、ぼうっとしていて……」

「あんたは、確か、新選組の小姓はんどしたな、沖田はんを看病してはる。藤堂はんのお墓参りにいらしたんどすか?……どないしたんどすか?涙やら流して」

りょうは、自分でも気づかないうちに、泣いていたらしい。

「な、なんでもありません。ごめんなさい。失礼します!」

すると、良誉上人が、りょうの手を取り、優しく微笑んで言った。

「しんどい恋も、また、み仏の与えたもうた試練どす。今は、あんたのするべきことをしたらええ。それが、あんたが試練を乗り越える力になる」

りょうは自分の心を言い当てられたことに驚いた。

「上人さま……僕の心を分かるのですか?」

良誉上人は、微笑みながら言った。

「誰かを強う思てると、『気』に表れる。あんたからは、沖田はんを慕う、強い『気』が見える。その『気』が空回りして、なんも動けへんのやあらしまへんか?」

良誉上人の言葉に、りょうは頷いた。

「上人さま、僕は、辛いんです。気力をなくしてしまっている沖田先生を見ているのが。どうしてあげることもできないのが辛いんです。できることなら、僕が病気を代わってあげたい。あの人に、思いきり、刀を振らせてあげたい。沖田先生が生き生きと輝いていた、あの頃に戻れるなら、どんなことでもしてあげたいんです!でも、どんな言葉を尽くしても、沖田先生の苦しみを軽くすることはできない……それが、辛くて……」

りょうは、良誉上人に、自分の思いを告げた。すると、良誉上人は言った。

「大丈夫どす。あの方は、もっと辛いことを、越えられてきたんどす。沖田はんも、ご自分の為さなならんことに気づけば、心の病は良うなりますえ」

「あのお墓の方……あの方は、どなたなのですか?それに、沖田先生が……殺したって……どういうことなんですか?」

りょうは尋ねた。

「それは、私からは言えまへん。でも、あんたなら、いつか、沖田はんは教えてくれるかもしれまへんよ」

良誉上人は言った。

「それには、僕がするべきことをしていないといけないのですね」

りょうが聞くと、

「あんたは、まっすぐな子や。あんたなら、沖田はんの閉じた心を開けますやろう。あんたが為さなならへんことは何なのか、よう考えたらええ。それが、きっと沖田はんを元気にするやろう」

良誉上人は微笑んだ。そして、水がかからないように法衣の袖をまくり、水桶の水を少しこぼした。りょうは、そのとき、良誉上人の腕をなにげなく見て言った。

「お坊様の腕って、もっと細いのかと思ってました。意外と逞しいのですね?」

良誉上人はちょっと動きを止め、水桶をおいて答えた。

「僧とはいいえ、子供の頃から修行をしてる身どす。結構、力仕事やらもするのんどすえ。薪割りやらもいたします。その昔は、僧兵やらもおったし」

良誉上人の言葉に、

「そうですよね。失礼いたしました」

と、りょうは、良誉上人に頭を下げた。再び顔をあげたとき、りょうの顔はそれまでと違っていた。自分のすべきことは、沖田の病が少しでも良くなるように見守ることだ、と心に決めたりょうに、今、迷いはなかった。りょうは水桶を持ち小走りにその場をあとにした。その時、懐の文が落ちた。良誉上人がそれを見つけ、拾い上げた。走っていくりょうの後ろ姿を見ながら、

(目ざとい子ですね......)

と、良誉上人は苦笑いをした。


 「ごめんなさい。水、汲み直してきたよ。藤堂さんのお参りして、早く帰ろ」

りょうが、沖田と鉄之助の待つところに戻ってきた。りょうの表情が明るくなっていることに、沖田も鉄之助も、少し面食らっていた。

(なんだ、さっきはあんなに泣きそうな顔してたくせに)

と、鉄之助は、拍子抜けした気分だった。藤堂の墓に手を合わせながら、りょうは思った。

(藤堂さんも、誰かに恋したこと、あったのかな……?)

帰ろうとしたとき、良誉上人が文を携えてやって来た。

「小姓はん、これ、落としましたえ。沖田はん宛や」

沖田が手紙を受け取った。

「あ、いけない。ありがとうございます。上人さま」

りょうが謝った。文を読んでいた沖田の顔が変わった。

「永倉さんたら……こんなこと書かれたんじゃ、僕はもう、何もできないじゃないか……!」

沖田の言葉に、りょうは心配になった。

「何て書かれていたの?悪いこと?僕にできることならするから、何でも言って!」

りょうが沖田を見つめると、沖田はりょうの頭に手を置いた。

「僕にできることが、まだあったみたいだよ。こんな僕に、みんなが、しっかりしろって言ってくるんだ。しっかりして、良蔵の役に立て、だってさ」

永倉の手紙には、良蔵が御陵衛士に狙われていること、その後ろには薩摩がいて、歳三を殺すために良蔵を捉えるかもしれないから十分注意すること、などが書かれていた。そして、新選組の誰もが、『良蔵が沖田の看病をすることが、良蔵が将来、武士ではなく、医者として生きていく上で役に立つのだから、しっかり良蔵に看病してもらうこと』を望んでいると、書かれていた。沖田が良誉上人の方を向くと、良誉上人は微笑んで、ゆっくりと頷いていた。

「あとは、中でお話ししたらよろしいのちゃいますか?風邪を引くとあかんえ」

良誉上人がそう言うので、三人は本堂に行った。すると、そこにお孝の姿があった。


 お孝は、真剣な顔で、三人に小声で話した。

「先程、山崎はんのお使いの方、見えられました。なんか、家が監視されてるさかい、良蔵はんとわからへんように、伏見に行かせてくれって。沖田はんもご一緒しとぉくれやすって」

りょうは、キョトン、として言った。

「僕が?なんで?」

すると、鉄之助が言った。

「お前を人質にして、土方先生を殺そうとしてるんだ。御陵衛士が」

「土方先生を?」

りょうは、自分と歳三の関係が薩摩に知られているのではないかと心配になった。

「油小路の一件で、御陵衛士が薩摩屋敷に潜伏しているのはわかっていたが、動きがつかめなかったんだ。僕たちが外に出たことで、彼らも行動を始めたということだろう。早くした方がいいな」

沖田の顔は、昨日までと違っていた。目に生気が宿り、頬も赤みを指している。気力が出てきている証拠だ。りょうを守らねば、という意思が、沖田の体力を回復させていた。その様子に、お孝もつかの間、ほっとした表情を浮かべた。

「うちにええ考えがある。少しの間、良蔵はんをお借りしてよろしいでっしゃろか?」

と沖田に聞いた。沖田は頷き、良誉上人は、沖田と鉄之助に本堂で待つように勧めた。


 お孝が、りょうを連れていったのは、亡くなった姉の深雪太夫がいた置屋だった。

「お孝さん、これは……?」

敵の眼をくらますためだから、と言われてお孝に従ったが、出来上がった自分を鏡で見て、りょうは動揺した。そこに写っていたのは、舞妓姿だったからである。

「やっぱし、思たとおり、かいらしいわ。これなら衛士さんかてわからんやろ」

と、お孝は満足げである。

「おなごのカッコは、初めてどすか?りょうさん」

お孝は、りょうを本名で呼んだ。りょうは驚いて尋ねた。

「どうして、それを……?」

お孝は、近藤から聞いていたことを話した。近藤は歳三から、りょうのことを打ち明けられて以来、やがて成長していくりょうのためには、大人の女性が誰か側にいることが必要だと思っていたらしい。君菊がいなくなって、近藤はお孝にその役を頼んだ。お孝も妹ができると喜んで引き受けたのだ。

「あの方は、なんも考えとらんようで、ちゃんといろんなこと気ぃ使うとるんよ」

お孝は笑いながら言った。

「袴やおへんのやから、そんな大股で歩かんといておくれやす。転びますえ」

と言われるが否や、りょうは転んでお孝に笑われた。

「そうそう。内股で静かに歩くんえ」

りょうは、初めての女姿に戸惑いながらも、少し嬉しかった。沖田とこの姿で歩いている自分を想像して微笑んで、思わず打ち消した。

(何を浮わついているんだ!これは逃げるための格好だ、勘違いするな!)


 外に出て、お孝を待っているとき、馬に乗った武士が駆けてきた。

「危ない!」

馬をよけたとたんに、下駄が引っ掛かり、りょうは転んだ。武士は驚いて馬から降りて、りょうに走りよった。

「すまぬ!怪我はないか?」

まだ若い武士だった。沖田と同年齢くらいだろうか。

「危ないじゃないか!こんな狭い道を乱暴な!」

思わず普段どおりの男言葉が出たので、武士の方が驚いた。

「ずいぶん威勢の良い舞妓だな。まるで男だ」

と、りょうの顔を見たとたん、その武士が言った。

「梅乃さま!?」

「えっ?」

りょうが武士を見上げると、その武士は首を振った。

「いや、すまぬ。そんなはずはないのだ。人違いをした。昔知った方にお前が似ていたので、思わず出てしまった。忘れてくれ」

武士は、恥ずかしそうに手を伸ばした。りょうはその手に掴まって立ち上がると、お孝があわてて走ってきた。

「りょうさん、大丈夫どすか!?」

りょうは黙って頷いた。

武士は、お孝の方を向いて、頭を下げた。

「私が悪いのだ。急ぎ登城とのご沙汰があり、狭い路地を馬で走らせた。私は、遊撃隊の伊庭八郎と申す。りょうどのとやら、許せ。もし怪我などしていたら、遊撃隊の屯所まで連絡を」

と、懐紙に金子を包もうとした。

「大丈夫です。怪我はしていません。お金なんかいりません」

きっぱりと、りょうは言った。相手が『遊撃隊』と聞いたとたんに、以前のいきさつが思い出されたのである。聞きたくない隊の名だった。伊庭は、不審そうに、

「江戸言葉の舞妓とは、珍しいな」

と言った。

(まずい!しゃべったらいけないんだ!)

りょうは思わず目をそらした。お孝があわてて、

「こっ、この子は、幼いとき江戸におったさかい、江戸言葉を覚えてもうたんどすえ。怪我もあらへんようやさかい、これで失礼します」

というと、伊庭は、

「名前、覚えておくぞ、りょうどの」

と言って、馬に乗って走り去った。

「りょうさん、気ぃつけな。舞妓が江戸言葉を話したらあかんどすえ」

お孝は、胸を撫で下ろしながら言った。

「すいません。でも、りょうという舞妓も、人物も、京にはいないので、わからないでしょう。僕は玉置良蔵です」

いくぶん、自虐的な口調だったので、お孝は、思わず、りょうを抱き締めた。

(かわいそうに。この子はずっと、こないな風に自身のことを隠してきたのね……)

「お孝さん?」

お孝の甘い白粉の香りに少し戸惑う、りょうだった。

「はよ、行きまひょね」

駕籠が来て、二人はまた光縁寺に戻った。


 伊庭八郎は、馬で駆けながら思った。

(あの舞妓の手……竹刀ダコのある舞妓なんているもんか!あれは男か、さもなくば江戸表からの隠密か……いずれにしても、あの顔は絶対忘れんぞ……!あれほど梅乃さまにそっくりな顔は……)

伊庭が心の中に思い浮かべたのは、りょうとそっくりの女性の顔であった。それは、伊庭の心の奥底にある、懐かしい記憶であった。


 光縁寺では、鉄之助が沖田から、無名の墓標について、話を聞いている最中だった。沖田は、鉄之助に言い遺すことで、いつか、りょうにも伝わるだろうと思ったのかもしれない。

「沖田先生……今の話は本当なんですか?長州の間者って……」

鉄之助が沖田に聞いた。沖田は黙って頷き、外を見た。

「だから名前が書いていないんですか……ただ、『沖田氏縁者』とだけ記したんですね?」

鉄之助が言った。

「元は、甲賀の忍びの家系だそうだよ。本名は誰も知らないんだ。でも、僕と平助は、『さだ』さん、という名前で呼んでいた。明るくて、優しいひとだった。幼いときに、母と兄弟を、幕府の役人に殺された、と言っていた」

そう言ったときの沖田の顔は悲しそうだった。鉄之助は、沖田がこの女性のことを大切に思っていたのだ、と感じた。

「最初は、池田屋で負傷した平助が、山南さんの紹介で薬を受け取りに行ったのが、彼女と知り合ったきっかけだったんだ。彼女は薬種問屋の娘だと言っていた。もちろん、後になって嘘だとわかったけどね」

「新選組が調べたのですか?」

「探索方が調べて、長州の間者だとわかって……僕は、守ってやることができなかった……」

沖田は、そこまで言うと、口をつぐんだ。


 かつて、徳川家は、伊賀の忍びと契約した。その結果、甲賀の忍びは、反徳川勢力と結ぶことが多くなったようだ。甲賀の忍びは医術や薬学に堪能な者が多く、この力を用いて潜伏していることが多かったらしい。


 (『貞』という女性の場合も、徳川への報復の意思を長州が利用して、間者として新選組に近づけた。しかし、沖田先生の心に触れた『貞』さんは、沖田先生を愛するようになったんだ。沖田先生もまた、不遇な人生を送ってきた『貞』さんを愛したんだろう。もしかしたら、休息所にいたのかもしれない。その後何があったのかはわからないが、結果として、間者一派と『貞』さんは、新選組の探索によって粛清されたんだ。名を残すわけにはいかないから、『縁者』としか、記せなかったのか……)

鉄之助は、沖田の話から、そんなことを一人で考えていた。


 「りょうが突然、新選組にやってこなかったら、僕は彼女と逃げていたかもしれない。りょうには、言うなよ」

沖田の告白に、鉄之助はびっくりした。

「だ、脱走しようとしていたんですか!?せ、切腹じゃないですか!絶対逃げられるはずないもの!」

沖田は、ふっと笑って言った。

「結果として、僕は新選組に残った。僕が今、生きていられるのは、やはり、りょうのお陰なのかな……」


 お孝とりょうが戻ってきたのはその時だ。りょうの姿を見たときの、沖田と鉄之助の驚きがどのくらいだったか想像に難くない。お孝は、沖田にも衣装を変えるように言うと、やがて、ひょろりと背の高い芸妓が出来上がった。今度は、鉄之助は笑いをこらえている。

「きっ、綺麗ですね、沖田先生」

「総兄ぃ、背が高いから、裾がギリギリだよ」

りょうが沖田の足元を見ながら言った。

「鉄、良蔵の時とずいぶん扱いが違うな。後で覚えておけよ」

沖田も微笑みながら言う。鉄之助は少し安心した。沖田の気持ちが今までと違っているのがわかる。永倉の手紙の効果だろうか?

「日暮れたら、すぐに出まひょ。どこで見張られてるかわかりまへんさかい」

お孝が言った。沖田は、

「少し待ってください。もう一度、平助の墓に」

と言って立ち上がった。少しよろけた。

「総兄ぃ!気を付けないと転ぶよ。僕も行く」

立ち上がったとたん、着物の裾を踏んで倒れたのはりょうの方だった。鉄之助はクックッと笑いを噛み殺している。

「仕方ないなぁ、ほら」

と鉄之助はりょうを起こしてやった。顔が近づいた。鉄之助の顔が赤くなった。

(良蔵、ホントに女の子だったんだな……意外とかわいい、な)

山南、藤堂の墓と、『沖田氏縁者』の墓にもう一度手を合わせて、一行は静かに光縁寺を出た。


 沖田総司がこの寺に来たのは、この日が最後であった。


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