第7章 蛍の飛び去るとき
近藤が亡くなった日の夜、沖田がりょうに言った。
「りょう、悪いが、明日の朝、花を入れてくれないか?その壺でいい……」
りょうはびくっとした。
「花を……?」
もしかして、本当は今日のことを知っているのではないか、とりょうは不安になった。
「どうして、花なんか……」
と聞き返そうとして、りょうは気づいた。
(え……と、明日は4月26日……あ、そうか)
翌朝、平五郎宅から小菊をもらい、壺に差した。そして、その脇に、小さな観音像を置いた。水と、その朝炊いたご飯を供えた。質素だが、仏壇らしくなった。
しばらくして沖田が目覚め、りょうが用意した、小さな仏壇を見て言った。
「ありがとう、りょう。気付いていたのか?」
りょうは頷いた。
「光縁寺の方の……命日、だよね?」
その日は、光縁寺に眠る『沖田氏縁者』の一周忌にあたっていた。
「その観音像は、屯所に置いていた物だね?母上の形見だっけ?」
沖田は、小姓部屋のりょうの机の上に置いてあったのを思い出していた。
「うん。母さんが亡くなったとき、母さんの物はすべて寺に預けてきたんだけど、この観音様は、なんとなく母さんに似ている気がして、持ってきたんだ。不動堂村の屯所を出るときに荷物の隅にいれておいたのを思い出して……」
「見せて」
と沖田が言ったので、沖田に観音像を渡した。
「優しい顔をしている……」
と、観音像を見つめる沖田。ふと、何かに気付いたようだ。
「これ、中に何か入っているね。合わせになっている。……はずせないようだけど」
「本当?」
と観音像を覗き込むりょう。自然と沖田に顔を寄せた。
沖田の顔が間近になり、はっとして顔を赤らめる。沖田は微笑む。
「きっと、いつか何かの弾みに開くよ。何が入っているのか楽しみにしているといい」
と、りょうに観音像を戻した。
今日の沖田は体調が良いようだ、とりょうはほっとしていた。沖田は机の上の花を眺め、隣に置かれた観音像に手を合わせた。りょうもそうした。
「これだけしてもらっては、話さない訳にはいかないね、彼女のことを」
と、沖田は言った。
「
りょうは、沖田を見つめた。沖田の口から、沖田の愛した
『あんたがすべきことをしていれば、きっと沖田はんは話してくれます……』
りょうは黙って沖田の傍らに座った。
「鉄之助には、少し話したんだ、『
「『貞』さん、ていうんですか……」
りょうは、何気なく外を眺めた。雨が、田んぼの早苗を濡らしていた。
(去年の今ごろは、まだ西本願寺にいたんだ……僕は何していたっけ……)
「りょう?」
沖田の声に、りょうははっとして、顔を上げた。
「やっぱり、よそうか。こんな話、聞きたくないよな。僕も、最初はりょうに話すつもりはなかったんだ。いつか、鉄之助から聞けばいいことだと思っていた……」
沖田がすまなそうな顔をするので、りょうは、
「ご、ごめんなさい、総兄ぃ。京のことを思い返していたら、ぼうっとしてしまったんだ。聞かせて。僕は知りたい。総兄ぃが……大切に思っていた
と沖田を見つめた。沖田がやっとその気になってくれたというのに何をしているんだ、と、りょうは自分を叱咤した。今を逃したら、もう二度と聞けなくなるかもしれない、とりょうは思い、
(どんな話でも、動揺せずに聞こう)
と、決心した。沖田も、頷いて話し出した。
沖田は、鉄之助に話したように、『貞』が甲賀の忍びの末裔で、長州の間者として新選組に近づいたことを話した。
「僕と平助、両方が彼女を好きになった。平助が、土方さんの命令で江戸に下行している間に、山南さんの事件があって……りょうは、山南さんを知っている?」
聞かれたりょうは、
「彦五郎先生の道場に、総兄ぃと時々来ていたのは覚えてる。山南先生は、大人の人の指導をしていたので、直接話したことはなかったかな。確か、亡くなられたとき、総兄ぃが、彦五郎先生に文をくれたよね」
と答えた。
「……そのことにも、薬種問屋の人間が関係していたことがわかって、僕は土方さんに、彼女と会うのを止められた。でも、僕は彼女を信じてあげたかった」
そう話す沖田に、りょうは、
「総兄ぃは、『貞』さんが間者だとは知らなかったんでしょう?」
と聞いた。
「……わからない。理性的に考えれば、近づいてはいけない女性だったということはわかる。でも、僕は彼女を放っておけなかった。彼女が、父親に愛されていないと苦しんでいたから……土方さんに止められても、僕は彼女を守るつもりだった」
沖田の言葉に、りょうは、沖田の優しさと弱さ、そして、『貞』への愛を感じていた。そんな沖田だからこそ、自分は沖田に惹かれたのだ、ということも。
「彼女の父親が営んでいた薬種問屋は閉められ、探索方が行方を調べたが、わからなかったんだ。次に彼女に会ったのは、ちょうど、土方さんが江戸下行していたときだった。彼女は僕に助けを求めていた。自分も長州の間者にさせられる、と恐れていた」
「……それって、『貞』さんが、意識してその時を選んだということ?……総兄ぃを止めることができないように……?」
りょうは沖田を見つめた。
「彼女が、わざわざ土方さんのいないときを狙って、僕に近づいたなんて、そのときは想像しなかったんだ。僕は、彼女を匿った……妻として……大切にしたかったから……」
りょうはギュッと拳を握りしめた。そうしなければ、泣き出しそうな自分を押さえるためだった。
「僕たちが一緒に暮らしたのは、ほんのわずかだった。平助に見つけられて、土方さんに知られて、僕らは逃げることも考えた。だが、結局、僕は新選組に残り、間者としての目的を達せなかった彼女は、姿を消したんだ」
そう言って、沖田はりょうをじっと見つめた。
「……どうしたの?総兄ぃ……」
りょうが聞いたが、沖田は、
「いや、何でもない……」
と答え、
「やがて、帝がご逝去された。急なご逝去に、疑惑の目が向けられたことは知っているよね。探索方の調べで、薩長と親しい公家と、彼女が、関係していたことがわかった。だが、薩長と争い事を起こしたくないという慶喜さまの意向により、新選組に秘密裏に長州の間者たちの追討命令が出されたんだ。一番隊に粛清の命令が出た」
沖田はそこまで言うと、無念そうに目を閉じた。りょうは、
「どうして総兄ぃを?……父さんが?父さんが命令したの?……ひどい!」
とうつむいた。沖田に恋人を殺す命令を出すなんて……!
「仕方なかったんだ。新選組の中に、長州の間者と親しい者がいると幕府側に疑われて……土方さんも僕に命令するしか……僕が、彼女たちの仲間を斬った。そして、彼女も死んだ……自ら……」
りょうは、思わず沖田を抱き締めた。
「もういい、もう話さなくていいよ、総兄ぃ。辛かったよね……誰よりも大切な方を……」
沖田は話してくれたのだ。辛い思い出を打ち明けてくれたのは、自分を認めてくれたからだ……りょうには、それで十分であった。
「りょう、僕はその時、自分も死んだと思った。胸の病はある程度わかっていたし、もうどこで斬られても、誰を斬ってもどうでもいい、と思っていた。君が、土方さんと、あの問題を起こすまで」
りょうは、不動堂村の屯所で、歳三に斬られそうになり、謹慎させられたことを思い出した。
「あのとき、総兄ぃが助けに来てくれなかったら、僕は父さんに斬られていた、と思う。でも、それがきっかけで、総兄ぃは病気が悪化して……」
りょうが言うと、
「それは違うよ。りょうは医者だろう?この病がいつからだか、わかるくせに、自分のせいにするんじゃない」
と、沖田はりょうを優しく見つめた。
「君は、小さな時から、僕が育てた弟子だ。負けず嫌いで、無鉄砲で、土方さんに反抗ばかりして、叱られている。でも、一生懸命だ。母を亡くし、父親の背中だけを追いかけてやって来た。そんな君は、『貞』を亡くした僕の、希望になった」
沖田はそう言って、りょうの頬を撫でた。
「僕は、他に守らねばならぬものはない。父も母もない。継ぐべき家もない。だから、命のある限り、近藤さんや土方さんを守ろうと心に決めた。どこにでもついていって、最後まで離れたくなかった。そして、その土方さんが、一番守りたいと思っているりょう、君には、誰よりも幸せになってほしい」
沖田は、ふうっと息をはいた。たくさん話すと、息が切れる。
「総兄ぃ、無理しないで。少し休もうよ」
りょうの目に涙が光った。
「りょうには、たくさん世話になってしまった。でも、僕は、もう君を守ってあげることはできない」
「総兄ぃ!」
りょうの目から涙がこぼれ落ちた。
「わかっている。どんなについていきたくても、僕はもう近藤さんたちを追えない。どんなにりょうを守りたくても、僕のこの手は、刀を振ることはできない」
沖田は、細くなった自分の腕を見つめた。
「総兄ぃ!そんなこと言わないで!僕が守る!総兄ぃを、今度は僕が守るから!僕は、強くなったよ!総兄ぃに大切な技を教わったんだもの!だから、少しでも元気になって!」
りょうは沖田にすがって泣いた。沖田はりょうの頭を撫でながら、
「こら、山崎さんに言われたんだろ、泣くなって……」
と言った。
「今は医者じゃないから、いいでしょ。僕は総兄ぃの弟分で、一番弟子で、看護人で、それから、それから……」
りょうは言葉を探したが、自分の気持ちを覆い隠す言葉は見つからず、
「これからもずっと、そばにいたい……!」
と、本心を沖田に打ち明けた。
「ありがとう、りょう」
沖田はりょうの手をとって言った。
「そうだな……僕が生まれ変わって、丈夫な男になって……またりょうと巡り会えたら……そのときはきっと、嫁さんにもらうよ」
「総兄ぃ……」
雨は静かに降り続いていた。
戊辰の年は、閏月の4月があった。季節は梅雨に入っており、何日も雨の降る日があった。長雨は、沖田の体調を、さらに悪くさせていた。
診察に来た島倉医師が、帰り際にりょうにそっと告げた。
「今はまだ落ち着いているが、もう、息をしているのも辛いはずだ。覚悟しておいたほうがいい」
沖田は、苦しそうな表情で眠っていた。
「総兄ぃ、どうしてあげたらいい……?僕のできることなら、なんでもするよ……!」
りょうは眠っている沖田にそう呟いた。
雨があがると、夕方にはたくさんの蛍が飛び交うようになった。
「もう、夏なんだね」
りょうが話しかけると、沖田が、
「…そういえば、一度だけ、りょうと……祭りに行った……覚えがあるな……確か……蛍が飛んでいた」
と言った。
「総兄ぃ、覚えていたの?」
りょうが目を丸くすると、沖田は微笑んで、
「浴衣を着た、小さなりょうは……可愛かったな……」
と言った。
「どうせ、今でもチビですよ」
とりょうがふくれると、沖田はふふ、と笑った。弱々しい微笑みだった。
「りょう……会津へ行くんだ……土方さんのところに……」
沖田がりょうを見つめた。
「総兄ぃ!そんな……」
「僕の代わりに……見てきてほしい。僕がもう見ることのできない……誠の旗の翻る場所……」
沖田は、外を見た。そして遠くを見つめた。
「進むべき道に迷ったら……誠の旗を捜せ。そこに俺はいる……土方さんが言っていた……この空は……会津にも続いている……りょう、行くんだ……誠の旗のところへ……」
沖田は言った。りょうは、
「いやだ。僕はずっと、総兄ぃのそばにいるって決めたんだ。そばにいて、できることをしたいのに、どうしてそんなことを言うの?」
と言うと、沖田は答えた。
「君は……土方さんの……娘だから」
その目には、強い願いが込められていた。りょうは思った。
(総兄ぃが大切なのは……父さんなんだね……どんなに僕がそばにいても、総兄ぃの心は、父さんや、近藤先生を追っている……僕ではないんだ……!)
「……わかった。行くから……でも、それは僕が離れられるほど、総兄ぃのからだが良くなってからだよ!……それまでは離れないからね!」
りょうは答えた。だが、その心には、言い知れない絶望感が広がっていた。
それでも、りょうは、懸命に沖田の看病をした。沖田はもう、あまり話すこともなくなった。呼吸も苦しかったためであろう。食欲もほとんどなく、りょうは、重湯や、瓜の汁などを少しずつ口に運んでやった。沖田は眠っていることも多くなった。時々目覚めると、黙って外を見ていた。
外の日差しは夏を告げていた。夕方に飛ぶ蛍も、少しずつその数を減らしていった。
5月末の夕方、沖田は目覚めて、いつものように、外を眺めていた。その手には、誠の隊旗が握られていた。ふと、外をじっと見つめて言った。
「近藤さん!どうしたの?戦は?」
りょうはその様子に驚いた。近藤がいるはずないのだ。外には誰もいない。ただ、今日はいつもよりたくさんの蛍が離れの周りを飛んでいた。
「総兄ぃ!何を言っているの?誰もいないよ」
沖田はまだ外を見ている。
「近藤さん、土方さんは?いないの?後ろにいるのは平助?楽しそうだな……源さん、原田さんもいるんだ……」
起き上がろうとする沖田を、りょうはあわてて支えた。
「総兄ぃ……!しっかりして!」
りょうは叫んだ。ふと、目の前を蛍が横切った。沖田の目はその蛍を追っている。気がつくと、何匹かの蛍が、庭に面して開いている障子の間から、部屋の中に入ってきていたのだ。りょうは愕然とした。
沖田の目に映っているのは、蛍ではなく、近藤や、かつての仲間たちなのだ。嬉しそうな、穏やかな表情であった。
「りょう、ほら、近藤さんが来てくれた。戦は終わったって……帰ろうって……」
「……そうだね。良かったね、総兄ぃ……」
りょうは沖田を支えながら答えた。沖田の周りに、蛍が近づいては、飛び去った。りょうは涙が溢れ、何も見ることができなかった。やがて、沖田は静かに目を閉じた。
「……うん……帰ろう……試衛館へ……みんな……で……」
沖田の体から、力が抜けた。
「総兄ぃ、総兄ぃぃぃ~!!」
りょうは声の限りに叫んだ。しかし、沖田は二度と目を開けることはなかった。
沖田の周りを飛んでいた蛍がいつの間にかいなくなり、そして、残った一匹の蛍が、りょうの肩に一度とまり、そして仲間を追うように、外に出ていった。
(……りょう……さよなら……)
そう告げているように、りょうには思えた。
慶応4(1868)年5月30日、沖田総司、永眠。享年27歳。
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