第9章 サンライズ号⑥ 蝦夷到着
外交官の名は、リチャード・ヒュースチンといった。箱館のイギリス領事で、今回は父親を本国から連れてきたとのことだった。日本になれない父親が、船の長旅で部屋に閉じ籠りがちになってしまった、と話した。それを聞いたりょうは、本山に、
「宮古に着いたら、買い物をしてほしいものがあるんですが、あちらの通訳の方に伝えてくださいますか?」
と、必要なものを書いた紙を渡した。本山はその紙にかかれたものを、通訳に説明した。通訳が宮古で買ったものは、味噌、昆布、わかめ、ししゃもなどであった。
りょうは、通訳に、厨房にいれてほしい、と頼んで、ししゃもを焼き、味噌汁を作った。ししゃもの焼いた匂いが伊庭たちの鼻をくすぐった。
「良い匂いだねぇ……これで一杯飲めたら、たまらねぇんだがな」
と伊庭は言った。ただし、他の乗客への、この匂いの説明に、本山が苦労したことはいうまでもない。
「焼いたししゃもは、頭から食べられますよ。味噌汁、温かいうちに飲んでみてください」
と、りょうは老人にすすめた。老人は、少し焦げた小魚に顔をしかめながらかじり、味噌汁をすすった。すると、
「Delicious!」
と顔をほころばせた。
「おいしいでしょう?日本の昔からの食べ物です。こむらがえり、なくなりますよ」
「What is this?」
味噌汁を指差す老人に、りょうは言った。
「み・そ・し・る といいます。日本のすうぷ。中は、わかめ、という海草です」
りょうは笑った。
「Wakame……no……Misosiru……nice soup!」
老人は、りょうを抱き締めた。りょうが目を丸くしていると、
「Thank you! My little doctor!」
と笑った。
翌日、なんと、りょうたち三人に、豪華な部屋が用意されていた。
「僕、いいのかなあ……たった10両しか払っていないのに……」
と、りょうが言うと、本山が、
「あのヒュースチンさんが、治療のお礼だと言って、部屋を用意してくれたんだ。りょうさんの気持ちが通じたんだろうさ。俺たちは、逆に、得してしまったな」
と笑った。伊庭も、
「医者としての使命感が老人の心を開いたのさ。これで、蝦夷まで船底に居なくてすんだ。ありがとうよ、りょうさん」
ふたりに本名を呼ばれて、てれくさいりょうは、
「あの、良蔵、でいいです。その方が慣れていて……」
と言った。
「男名の方が気が楽か……じゃあ、良蔵の『良』をとって、『良さん』と呼ぶことにするよ」
「それって、何か違いがあります?」
りょうが不思議そうに聞くと、伊庭は
「気持ちの問題だな。男に話しかけるときと、女に話しかけるときとでは、気持ちが違うんだ」
伊庭が得意気に言ったので、本山は、
「八郎ならではの論理だ。気にするな、良さん」
と笑ったので、りょうもつられて笑った。このふたりと一緒だと、緊張がほぐれる。
宮古で補給を終えたサンライズ号は、一路、蝦夷を目指した。蝦夷が近くなるに従い、波が高くなったが、船底から逃れた三人は、ゆったりした部屋の中で、揺れを乗りきることができた。
サンライズ号が蝦夷、箱館の港に着いたのは、11月28日だった。りょうたちは、イギリス領事館に寄ることを進められたが、商売があるから、と丁重に断った。幕府の脱走艦隊に合流する、とはさすがに言うことができなかった。
「着いた……!僕は、ついに蝦夷まで来た……父さんを追って、ここまで……」
船が接岸するのをじっと見ていたりょうは、気持ちが高ぶるのを感じていた。
箱館港は、雪であった。京でも雪を見た。しかし、京よりも蝦夷はかなり寒い。海からの風が余計に寒さを際立たせているようだ。りょうは、小吉からもらった綿入れを羽織った。ほんわかと暖かい。三人がまず向かったのは五稜郭だ。
「馬を借りてきたいんだが、良さんは、馬、扱えるのか?」
伊庭が聞いた。
「い、いえ……僕は……」
とりょうは口ごもった。
「なんだ、馬に乗れないのか?歳さんの子がだめじゃねぇか……俺が少し教えてやるよ」
伊庭が言った。りょうは恥ずかしかった。新選組にいたときは、馬に乗ることは必要なかった。会津では乗馬の必要を痛感したが、病院の仕事が忙しくて、それどころではなかったのだ。
「蝦夷では歩いてると、凍え死ぬぞ」
伊庭はりょうの方をむいて、真剣な顔をした。りょうは青くなった。
「ぼ、僕、乗馬、覚えます!」
すると、本山が笑った。
「八郎、あんまり脅かすな。徒歩の者が凍え死んでいたら、このへんには死体が山になってるぞ」
港に続く通りには、商人や町人がたくさん歩いていた。雪が道の両側によけられており、かなり前から雪が降っているのがわかったが、人々はそんなに厚着もせず、凍えている様子もない。
「もう、伊庭さんは……僕、明日には凍え死ぬかと思いましたよ!」
ははは……と伊庭と本山は笑った。りょうは、本山に馬にのせてもらい、五稜郭に向かった。伊庭は片手綱を上手に操るが、慣れない雪道を心配した本山が、りょうを乗せたのだ。
「本山さんて、伊庭さんにとても優しいんですね」
とりょうが言うと、
「八郎のためなら、俺は死ねるかもしれないな」
と本山は微笑んだ。その笑顔にりょうは一瞬、不安のようなものを感じたが、気のせいだと打ち消した。
「この雪が融けないうちに、なんとか独立を勝ち取れるといいな」
本山が言った。
「脱走艦隊には、最強軍艦『開陽』がある。これがあれば新政府の寄せ集め艦隊なぞ怖くねぇ。この地に徳川の侍たちの、新しい国を創るんだ……そのために、俺たちは来たんだからな」
伊庭が言った。彼らの目もまた、その目的を見据えて、輝いていた。りょうはそんなふたりに、『生まれながらの幕臣』としての気概を感じていた。
「さあ、先ずは到着の挨拶だ。榎本武揚どのに会わなければな」
伊庭が言った。本山が頷いた。
「歳さんもいるかもしれねぇな、良さん」
と、伊庭がりょうに話をふった。
「はい!」
(もうすぐ、父さんに会える……)
りょうも、期待に胸を膨らませていた。
だがこのとき、歳三は松前にいた。江差において、開陽丸が嵐で沈んだのは、この15日のことであった。歳三は榎本にあとを託され、松前の処理にあたっていたのだ。このことをまだ三人は知らなかった。
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