異変の始まり 3
散歩から部屋に戻ってくると、テーブルの上には一通の手紙が乗っていた。
「これは……、ニーグレン国から?」
裏返すと、金色の封蝋にはニーグレン国の紋章である宝珠を持ったドラゴンが押されている。もしかしたらキャリーナからかもしれないと思った私は、すぐにそれの封を開けた。
何が書いてあるのだろうと、逸る心を抑えながら文面に視線を走らせる。
結論から言うと、それはニーグレン国の外務省から届いた招待状だった。アイボリー色がかった上質紙には是非ニーグレン国にお越しいただきたいとしたためられている。右下にあるサインはニーグレン国外務大臣のものだ。
「招待状……」
キャリーナから最後に来た手紙には、ニーグレン国に招待したいと書いてあった。だから、それに従って正式に招待状を送ってくれたのだろう。日付は二ヶ月後だ。
「これを手配したから、自分からの手紙はいらないと思ったのかしら?」
私は手にしている招待状を丁寧に封に戻すと、それを机の上に置く。
「返事に合わせてキャリーナに手紙を添えようかしら?」
ニーグレン国の外務省から届いた手紙の返事は、ナジール国の外務局を通じて返事が出される。転移魔法で失敗して届かないということもないだろう。
私はすぐにペンを取ると、招待状を貰って嬉しかったこと、ニーグレン国に初めて行けることが、そしてキャリーナに会えるのが楽しみだと綴ったのだった。
◇ ◇ ◇
ナジール国の南に位置するニーグレン国は、年間を通して温暖な気候だ。けれど、さほど湿気がないので日陰にいれば暑さもそれほどではなく、日中も過ごしやすい。
祖国ナジール国の北方にある深藍色とは違うアクアブルーの海にため息が漏れる。太陽の光を浴びてキラキラと輝く海面は、奥に行くにつれて徐々に深みを増して濃い青へと変わっていた。
「見て、エド。海の色が全然違うわ」
「そうですね」
エドは私の隣に立ち、どこまでも続く大海原を眺める。所々に、大型船や小型の漁船が浮いている。
私は今、ニーグレン国を訪れている。
最近、ナジール国の王宮には魔術研究所の王宮魔術師達によって、国内主要都市と結ぶ大規模な転移魔法陣が設置された。お兄様の寝室の隠し扉の奥で見たのと似たものだが、こちらは主に軍の幹部や文官達が地方都市を訪れる際に利用する公的なものだ。前世ではなかったように思うから、こうした部分も少しずつ一度目の人生とは違っている。
私達は国境付近の都市まではこの転移魔法陣を使い、そこからは馬車で移動した。国内の移動時間がない分、ニーグレン国の首都ブルベンまでは三日で到着することができた。
「アナベル様、そろそろ行きましょう」
ぼんやりと景色を眺めていると背後から声を掛けられ、私は振り向いた。そこには、暑い中でも長袖の白い騎士服をきっちりと着込んだヘンドリックが立っていた。
ヘンドリックは今、私の護衛騎士長を務めており、前世で言えばエドの立場に当たる。近衛騎士だけれども魔法も得意で、魔法騎士団であっても十分にやっていける程の実力の持ち主だ。
「もう少しだけ。ねえヘンドリック、とても素敵な場所だと思わない?」
「はい。そう思います」
ヘンドリックは海と同じアクアブルーの瞳を私の背後に投げかける。
「リエッタに見せてあげたい?」
私が聞くと、ヘンドリックは驚いたように目を瞬かせる。そして、もう一度海を見つめると「そうですね。いつか、連れてこられたらいいと思います」と口元を綻ばせた。
「いつか見せてあげるといいわ。人生は一度きり、やりたいことはやった方がいいのよ。後から後悔するのでは遅すぎるわ」
普通はね、と私は心の中で付け加える。
「はい。肝に銘じておきます」
ヘンドリックは恭しく頭を下げる。私はその様子を見て苦笑した。
ヘンドリックはとても優秀な近衛騎士なのだけれども、少し真面目すぎるところがある。きっと、そんな長期休みは取れないと言って、ここにリエッタを連れてくることはなさそうな気がした。なら、彼が結婚した暁には主からの命令として二週間の休息を義務づけてしまおう。そんな作戦を勝手に立てて、驚くヘンドリックの顔を想像しては笑いが込み上げる。
「姫様、なんだか楽しそうですね?」
「え、そう? なんでもないの」
気付けば、エドが私の顔を眺めて不思議そうな表情を浮かべていた。
いけない、だらしなくにやけていたかしら?
私は慌てて表情を取り繕うと、被っている日よけの帽子を指先でしっかりとかぶり直す。
ヘンドリックが言うとおり、そろそろ行かなければニーグレン国の王宮に到着するのが遅れてしまう。
「どうぞ」
ヘンドリックが馬車の扉を開けてくれたので、私はそこに侍女のエリーと共に乗り込んだ。エドは他の魔術師と共に後ろの馬車だ。
ニーグレン国はお兄様も招待して下さったのだけれど、前々から決まっていた公務がずらせずに今回は私だけの参加となっていた。お供に連れてきたのは侍女のエリーと護衛騎士達、それと、キャリーナから是非との要望を受けてエドを含めた王宮魔術師達だ。
「キャリーナ姫とアナベル様は仲がよろしいから、お会いするのが今から楽しみなのではないですか?」
かたかたと揺れる馬車の中から飽きもせずに美しい海を眺めていると、正面に座るエリーがにこりと微笑みかけてきた。エリーは私の成人祝賀会でキャリーナがナジール国に滞在している間よく一緒にお茶をしていたことや、手紙のやり取りを頻繁にしていたことも知っている。
「うん、そうね」
外務局を通じて今回の招待状への返事を出す際、私はキャリーナ宛に手紙を添え、それに対する返事は程なくして届いた。けれど、書かれていたのは儀礼的な挨拶と王宮魔術師を是非連れてきてほしいという要望だけで、いつものような世間話は一切なかった。そのことに、少なからず私はがっかりした。
私はエリーに微笑み返すと、また大海原へと目を向ける。
(理由は……会ったときにでも聞けばいいかしら)
何か気を悪くするようなことでもしてしまっただろうかと考えたけれど、特に思い当たることもない。
雲ひとつない蒼穹には、海鳥の群れが悠然と飛んでいるのが見えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます