第一部 第一章 学園編

二度目の人生の始まり 1

 うとうととしていた私は、持っていた万年筆を落とすカランという音でハッと意識を覚醒させる。慌てて辺りを見回したが、周りの生徒達は何も変わらぬ様子で黒板の方向を見つめ、時折ノートにペンを走らせていた。


 久しぶりに、あのときの夢を見たわ。


 目を伏せてポケットに手を差し込み、ころんとした丸い物に触れてほっと息を吐く。


「それではゴーデンハイムさん。浮遊魔法の触媒にはマンドレイクの根の粉末と何を混ぜるのがいいか、覚えていて?」


 不意に先生が問いかけてきて、私は慌てて立ち上がる。椅子が後ろの机に当たり、ガタンと揺れた。どうやら居眠りをしていたことは、バレていたようだ。


「はい。死海の塩とカエルの卵を干して粉末状にしたものを新月の夜に二対八で調合したものです」

「よろしい。正解です」


 何事もなかったように澄まし顔で答えると、先生は右手の人差し指で眼鏡をくいっと上げて息を吐き、また黒板へと向かう。隣に座る親友のオリーフィアが笑いを堪えるように口を押さえ、こちらを見つめていた。

 そういえば、以前オリーフィアはあの先生があまり好きではないって言っていたかしら。時々意地悪なことをするからって。確かに意地悪だわ。居眠りしているのに気付いていながら、わざと不意打ちで難しい問題を当ててくるなんて。


 でも、この世界がの私にとって、これくらいの問題は朝飯前なのよ。


 私は片眉を上げ、オリーフィアにペロッと舌を出して見せる。そして、お互い口を覆って声を殺して笑った。少し離れた席から、仲良しのクロードが呆れたようにこちらを見ていたことには気が付かないふりをしておいたわ。




 今、私はナジール国にある国立グレール学園に通っている。


 そう。私の二度目の人生は、とても唐突にスタートした。



 ◇ ◇ ◇



 私は閉じ込められていた。ソファーも椅子も、カーペットもないこの暗く冷たい牢獄で、たった一人で剥き出しの石の床に座り込んで。


 ──ガシャ、ガシャ、ガシャ。


 あれは鎧の金属がぶつかって鳴る音だ。衛兵達が近づいてきている。

 だんだんと大きくなるその音に、思わず両耳を塞いだ。


 嫌だ、嫌だ、嫌だ。


「おいっ、出ろっ!」


 怒声と共に隣の独房が乱暴に開けられて、中にいる男が引きずり出された。咄嗟に立ち上がると鉄扉のすぐ近くに駆け寄り、そこに付いた小さな鉄格子の合間から外を窺った。


「エド……」


 両わきを衛兵に固められ、魔力拘束の黒い首輪を付けられたエドはチラリとこちらを一瞥すると、小さく首を振る。黙っていろと言っているのだ。目を見開いたままその姿を見送りながら、両手で口を押さえて泣き出したい衝動を押さえつけた。


 行ってしまう。皆が行ってしまう。

 二度と自分の手が届かないところへ、行ってしまう。


「いや……」


 堪えきれずに声が漏れた。


「いや、いや、いや……、いやぁぁぁー!!」


 お願い、私からこれ以上、大切なものを奪わないで──。



 ─

 ───

 ───────



「はっ! はぁ、ああ……!」


  目が覚めると、酷い汗だった。ネグリジェはびっしょりと濡れ、金の髪はおでこや首に張り付いている。そして、指先に触れたベッドのシーツは汗で冷たくなっていた。


「ベッド?」


 お尻の下の柔らかな感触に、驚いた。

 今乗っているのは、紛れもなくベッドだった。それも石でも木でも病人用の質素なものでもなく、天蓋付きの豪華なベッドだ。


 暗い牢獄にいたはずなのに、これはどういうことなの? 


 混乱して状況が飲み込めずにいると、扉をノックする音がして声がかけられる。


「アナベル様、如何なさいましたか?」


 カチャっという音と共に、寝室の扉が開かれて心配そうな表情をした若い女性が顔を出す。


「あ、なんでもないわ」


 私は咄嗟に体裁を取り繕い、なんでもないように答える。


「さようですか」


 扉から顔を出した若い女性を見て、驚いた。茶色い髪をひとつに纏めたそばかす混じりの優しそうな女性──かつて祖国のナジール国で私の侍女を勤めていたエリーは、ほっとしたように息をつくと、こちらまで歩み寄ってきた。

 あるわけがない光景に硬直する私に対し、エリーは落ち着いた様子だ。


「アナベル様、今日もお寝坊さんですわ。もう、起きて下さいませ」

「──い、今、何時なの?」

「もうすぐ八時ですわ」

「えっと……じゃあ、起きようかしら」

「かしこまりました」


 エリーはにこりと微笑むと、ベッドの脇をすり抜けて窓にかかったカーテンを引いた。

 朝の光が部屋の中に差し込み、辺りを明るく照らし出す。私は、ぐるりと首を回して辺りを見渡した。


 壁際に置かれた木製サイドボードには縁に精緻な彫刻が施されている。白色の上品なクローゼットは可愛らしい猫足。それとお揃いのデザインの大きな鏡がついたドレッサー……。

 そこは、忘れるはずもない、かつて私が過ごしたナジール国の王宮の私室だった。

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