3

 カビと汚水の混じり合う嫌な臭いは、いつの間にか慣れてしまった。

 けれど、血の臭いは未だに慣れない。


「エド?」


 私は牢獄の入り口にいる看守に気付かれないような小さな声で、隣の独房へと呼び掛ける。少しの沈黙の後に、「はい、姫様」と掠れた声で小さな返事が返ってきた。

 誰が呼び始めたわけでもないけれど、エドは初めて会ったその日から私を『姫様』と呼ぶ。そして、姫ではなくただの囚人となった今も、未だに『姫様』と呼び続ける。


「もう、いいのよ。貴方まで死んでしまうわ。一人でお逃げなさい」

「──姫様をおいては行きません。最後までお守りすると申し上げたでしょう?」

「だって、きっと来ないわ」

「必ず来ます」


 エドの言葉に私は押し黙る。

 この牢に繋がれてから何度繰り返したかわからない、このやり取り。


 エドは必ず祖国から助けが来ると、毎日のように私を励ましてくれる。私があなたのこの言葉に、どれだけ助けられたか知っているかしら?


 エドは元々、王太子である兄の幼なじみであり、祖国ナジール王国のエリート魔法騎士だった。それが、私の輿入れのお伴としてナジール国からこの国にやってきた。


 私は最初、それを聞いて驚いた。エドの実力はナジール国の一、二を争うほどで、箱入り娘だった私ですらその評判を耳にすることは多かった。だから、彼を同行させることは才能の流出であり、国益を損なうと思ったのだ。

 それを無理に推し進めたのは王太子であり、エドの親友でもある私の兄だった。少ないお伴しか付けない私には、優秀な護衛が必要だと。


「わたくしのお供になったせいで、ごめんなさい」

「何を仰いますか。自分で強く希望したのです」


 嘘だ、と思う。

 エドはナジールに残れば、いずれは国の中核を担う人物になれた。それなのに、私が捕らえられたせいで、共に牢獄ここへ連れてこられた。

 一人なら十人の戦士を相手にしようとも容易く逃げられたはずなのに、私を人質にとられたせいで捕らえられたのだ。


「先程、連行されている途中にほんの僅かに空が見えました」

「空?」

「ナジール国と繋がっています。きっと、姫様の大切な人達も同じ空を見上げていることでしょう」


 同じ空を……。

 不意に涙が溢れそうになり、私は唇を引き結ぶ。


 衛兵達の断片的な会話から判断すると、祖国であるナジール国は奇襲のように攻め込まれて一気に首都まで陥落したらしい。ただ、未だに私の家族である国王一族やその側近達は行方を眩ましているようだ。それに、いたはずの魔法騎士軍も忽然と姿を消したと。


 お父様とお母様、それにお兄様は無事だろうか。

 どうか、無事でいて欲しい。


 サンルータ王国の連中は残ったナジール国軍が攻めてくるのを怖れ、血眼になってその行方を探している。未だに私が処刑されずにいるのは、攻め込まれたときの脅しの材料として使うつもりだからだろう。


 エドはつい数ヶ月前まで魔法騎士軍の中枢部にいた。このようなときに軍がどういう動きをとることになっていたかを、よく知っている。だから、彼らはなんとしてもエドから彼らの動きを聞き出そうと毎日拷問紛いの尋問を繰り返しているのだ。


「エド。手を」


 私は独房の一番奥、汚水とヘドロで薄汚れた排水溝へと手を伸ばす。

 各独房の壁際の下側には汚水を流すための排水溝があり、横並びの独房を貫くように傾斜をつけて溝が入っている。その僅か十センチメートル四方の穴が、厚い石の壁で隔てられた私とエドを繋ぐ唯一の窓だった。

 小さな穴へと手を伸ばすと、エドの指に手が触れた。その温かさにほっとする自分がいることに、また酷い自己嫌悪に陥る。


 私を置いて逃げなさいと言いながら、私はこんなにもこの人を必要としている。その大きな手に触れられると、こんな環境にいながらも安心するのだ。


「姫様、大丈夫ですよ」

「ええ」

「必ずお守りしますから」

「ええ。いつも守ってくれているわ」


 私にはあの事件の直後、エドワールがかけた加護がある。

 誰かが私を傷付けようとしても、できないのだ。だから、新しい王妃様候補(これもおかしな話だわ、婚約者として来た数ヵ月後には獄中に繋がれ、私の結婚式の来賓として来たはずの隣国の王女が新しい王妃様候補として決まっているなんて!)の指示のもと、ここの衛兵が私に暴行を働こうとしたときも、触れようとしただけで稲妻が走り逆に衛兵が気絶した。


 けれど先程エドを連れてきた衛兵は、新たな王妃様候補──キャリーナは私に食べ物を与えないで衰弱死させるように指示したと言っていた。きっとそれはサンルータ国王の許可を得ない独断だろう。しかし、ここの看守がそれを知るはずもないから、それをなんとかするのはさすがのエドにも無理だ。


 そうはわかっている。わかっているのだけれど、エドの『大丈夫』は私を安心させる不思議な力がある。


「エド。今度は兵糧攻めらしいわ」

「…………」


 エドは答えなかった。


「どうせ死ぬならば、全く違う道を選べばよかったわ。楽しいときは大声を出して笑って、悲しいときは涙を流して泣くの。町で買い物して、好きなものを大口開けて食べて、恋に落ちて愛する人と結婚するの」


 できもしない夢を語り、ふっと自嘲のため息を漏らす。

 私はこれまで、一国の王女として、人生の全てを捧げてきた。感情を殺し、自分を殺し続けた結果がこれだ。人生とはなんと理不尽なのだろう。


「──今からでも、きっとできます」

「ふふっ。エドが叶えてくれる?」

「もちろん」

「こんな目にあったのだもの。一度ならず二度叶えられてもいいくらいよ」

「そうですね。では、二度、叶えましょう」

「まあ、うふふっ」


 こんな環境にも関わらず、思わず笑みが。漏れる。

 私を落ち込ませないための嘘は、どこまでも優しい。


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