第92話 或る男の話

「柳殿の話ではなく、私は叔父上の話をしているのですよ」


 棗瑞玲ザオ・ルイリンに呼びかけられて、棗绍ザオ・シャオの意識が現在へと引き戻される。瑞玲ルイリンとともに居龍殿で二人話をしていたのだ、と思い出した。叔父上は何かを隠しているのではないか、と問い詰められていたのだ。


「納得のいっていない顔だな。……瑞玲おまえには何が見えているのだ?」


 棗绍ザオ・シャオがいつものように柔らかく微笑んだ。それに対し、口を引き結んだ瑞玲ルイリンの大きな瞳に鋭い光が見える。


「叔父上、一つだけお聞きしたいことがあります。城歴で常子远チャン・ズーユエンが生まれた時、赤子を生かしておけという書簡を送ったのは誰なのでしょうか?」


 外を眺めながら棗绍ザオ・シャオは建物の柱にもたれかかった。外にある大きな広場では、門下生が鍛錬をしている。


「さあなあ。たしか、書簡の差出人の手がかりは無いはずだが」


「……私は、叔父上が書簡を送ったと考えています」


 そうか、とだけ呟いて棗绍ザオ・シャオが目を伏せた。


「はい。当時、“厄災を招く子”が生まれたことを知っていた人物は限られています。十五年前の当時、呪部の予言を知っていた人物。……政主であった叔父上ならば、呪部の予言を知ることが可能ではないでしょうか? さらに転送の霊符の権限を持つ叔父上なら、機会を見計らって書簡を送り届けることは可能です」


「つまり、何を言いたい?」


「叔父上には“厄災を招く子”を生かしておきたい理由があった、のではないかと」


 政主となった姪から逃れられそうにもない。 観念したように棗绍ザオ・シャオはため息をついて、目を細めた。


「…………わかった、瑞玲ルイリン。では、ある話をしようか。取るに足らない、一人の男の話を」



 今から三百年ほど前の話。義岳門に、胡劭フー・シャオという青年がいた。人の陰に隠れてばかりで、鍛錬や手合わせよりも、草花を摘むほうが好きな気弱な青年だった。明るい昏黄こんこう色の髪や橙色の目でよく目立ち、他の門下生から目を付けられていた。


胡劭フー・シャオの軟弱者! 俺たちと手合わせをしろ!」

「怖いよ……手合わせしたくないよ…………だって痛いし、負けたって言っても剣でぶつのをやめてくれないしさあ……」


 その時、胡劭フー・シャオと門下生のあいだに割って入った者がいた。


「おい! 胡劭フー・シャオに手合わせをしてほしいなら、俺を通してからにしろ! 数人がかりで卑怯だろうが!」


「げっ! またお前か、棗轩ザオ・シュエン!」


 胡劭フー・シャオが数人の門下生に囲まれているところを、いつも止めてくれたのは、棗轩ザオ・シュエンという青年だった。


「おい、俺と手合わせしたいやつは誰もいないのか?」


 棗轩ザオ・シュエンが野葡萄のような色の目でにらむと、門下生たちが怯んだのか後ずさりをした。


 彼の若葉のような色の髪も明るい色をした目も、黒髪が多い中で胡劭フー・シャオと共によく目立った。だが、胡劭フー・シャオとは違って門下生に絡まれても、剣の手合わせで何度も打ち負かしていたのだ。


「ごめんね棗轩ザオ・シュエン。私が弱いから君に助けてもらってばかりだ」


 胡劭フー・シャオ棗轩ザオ・シュエンの背の後ろから顔だけのぞかせて、逃げるように去っていく門下生たちを眺めていた。


胡劭フー・シャオ気にするな。あいつらは数人がかりでお前を殴りたがっているような、卑怯なやつらだからな」


 そう言って、棗轩ザオ・シュエンが白い歯を見せて笑った。その笑顔は眩しい陽光のようだった。目を潤ませていた胡劭フー・シャオもつられるようにして、はにかんだ。


「君はすごいね」


「そんなことはないぞ。俺は生き延びるためにこうなるしかなかった。お前は花を見て綺麗だと思えるかもしれないが、俺にはずっと花を眺める心の余裕などなかった。お前のその心こそが、天下が平安であることを表していて素晴らしいんだ」


 棗轩ザオ・シュエンが遠い目をした。棗轩ザオ・シュエンの血のつながった者は、数年前の戦で皆亡くなってしまったのだという。ここへ来るまでの壮絶であろう人生を、彼はあまり語ろうとしなかった。



 そしてある日、師匠から頼まれて胡劭フー・シャオ棗轩ザオ・シュエンは、一人の青年と出会った。名を姬秀成ジー・シウチェンと言い、十八になるまで生き延びた“厄災を招く子”であった。髪型こそ違えど、今の常子远チャン・ズーユエンと瓜二つの見た目をしていた。


「君たちの師父とは顔見知りでね。義岳ここを発つまでの間、護衛をたのむついでに、君たちに古くから伝わるまじないでも教えようかと思ったんだ」


 彼の言う古くから伝わるまじないは、玉に文様を組み合わせた彫刻を施すというものだった。火に関係する文様を組み合わせたならば炎を生み出すことができ、水に関係する文様を組み合わせたならば、水を生み出せるのだという。


 義岳門にまじないに詳しい者はいないので今まで興味は無かったが、姬秀成ジー・シウチェンの巧みな話により、二人はみるみるうちにまじないに興味津々になっていった。君たちは筋が良いから、まじないの基本をある程度教えられるぞ、と姬秀成ジー・シウチェンが褒めてくれたのも嬉しかったのだ。そうして十日ほどが過ぎた。


「明日には義岳ここを発とうと思う。俺は法宝を体に宿しているから、妖鬼が寄る体質でね。一つの所にいると、妖鬼の類いやまじないに詳しい人間が私に気づいてしまうんだよ」


 姬秀成ジー・シウチェンが二人に法宝を見せるために、手の甲から短い剣を出した。柄の部分には、太陽や動物をかたどった文様が施してある。


「痛くないの? 血は出ていなさそうだけど」

「痛いさ。だから、すぐに身体にしまっておく」


 姬秀成ジー・シウチェンの九族の中では数十年に一度、法宝を体に宿した者が生まれてくるらしい。だが法宝が妖鬼を寄せるため、赤子のうちに殺される。それを哀れに思った者が赤子であった姬秀成ジー・シウチェンを攫い、彼は十八まで生き延びた。そんな稀有な存在だった。


「最近、暁片の偽物が世の中に横行しているらしいが、本物は俺の体の中にある。だから、法宝を“持っている“と言う人間には気を付けろよ」


 姬秀成ジー・シウチェンは酒を飲みながら豪快に笑った。次の日の朝二人が起きると、姬秀成ジー・シウチェンの姿は消えていた。その後一度も、彼の姿は見ていない。



 その数年後、暁片を持っているやらいないやらで、義岳近くの小さなむらで争いが起こった。義岳門下の者たちは戦を止めるために戦ったが、そこで棗轩ザオ・シュエンは弓に射られてあっけなく死んでしまった。


 戦が終わった後、暁片を持っているというのは嘘だ、と叫びながら人々を止めに入っていた青年がいたのだと噂になり、瞬く間に彼は崇められる対象となった。彼は姬秀成ジー・シウチェンに教えてもらったことを信じ、彼の生来の正義感で人々を止めに入っただけなのに。


 胡劭フー・シャオ棗轩ザオ・シュエンの死体を見たとき、誰かが悪い嘘をついているのではないかと思った。だが、何日が経とうとも、泣きわめこうとも、彼が死んだ事実は変わらなかった。


棗轩ザオ・シュエン、君が居なくなって私はどうすればいいんだろう?」


 この時、棗轩ザオ・シュエンはすでに結婚しており、子どもも二人いた。だが、運悪く流行り病により、立て続けに妻や外戚が皆亡くなってしまったのだ。


 生き延びた彼の子どもたちに縋るような気持ちで、どうにか親兄弟を説得して子どもたちを育てることにした。しかし、胡の家にいてもなお、“棗”を絶やしてはいけないと胡劭フー・シャオは思った。


 だから、胡劭フー・シャオは子どもたちが大きくなる前に、自らの姓を棗とし、字を绍と変えた。


 その後、各地を転々としながら、胡劭フー・シャオは叔父として棗轩ザオ・シュエンの子孫を三百年もの間見守り続けた。



 一通り話して疲れたのか、棗绍ザオ・シャオは額に手を当てて目を閉じた。


「私は常子远チャン・ズーユエンの先祖にまじないを教えてもらった恩がある。だから、常子远かれの命を助けるようにした。――まさか李紹成リ・シャオチァンが親兄弟を皆殺しにして、あのような育て方をするとは思わなかったが」


 棗绍ザオ・シャオが頭を振って苦い顔をした。瑞玲ルイリンは今叔父から聞いたことを一つ一つ確認するように言葉を紡いでいく。


「義岳門の胡劭フー・シャオ、それが叔父上なのですか?」


「ああ。私は叔父でもなんでもないし、君たちと血もつながっていない」


「……三百年も血がつながっていない者たちを見守っていたと? いくら友であったとしても、今まで生きてきた名前を捨て、あっけなく死んだ棗轩にんげんの姓を名乗るほどなのですか……?」


「姓など取るに足らないものさ。途中で変える者もいると聞くし、そこまで言うほどか?」


 棗绍ザオ・シャオの返答に理解できないとでも言うように、瑞玲ルイリンが眉をひそめた。


「私には分かりません、胡劭おじうえが何故そのようなことをするのか」


棗轩ザオ・シュエンが死んで悲しかった。先を歩いていた人がいなくなって、私は迷子になってしまったような気がした。彼の子どもを育てる者が居なくなったとき、彼の血を絶やしてはいけないと本能的に思った。……それと単純にね、棗轩かれの子孫が育つのが嬉しかった、という答えでは納得出来ないか?」


「しかし、叔父上の人生はそれでいいのですか? いくら友とはいえど、他人の子孫を三百年見守るなど、叔父上にとって益がない話です。話から考えるに、私たちが棗轩ザオ・シュエンの子孫なのでしょう? そんなの、あまりにも……」


 鍛錬よりも草花を摘むのが好きな青年が、政主と黄龍を務めるようになるまでどのような人生を辿ったのか、瑞玲ルイリンには想像ができなかった。棗轩ザオ・シュエンが、振る舞いも姓も変えても良いと思うに足る人間だったのかも疑わしいのだ。


 胡劭フー・シャオが人生すべてを変えなければ自分がここにいなかったであろうことも、瑞玲ルイリンは悔しかった。


「そうだよ。だから、今日政主と黄龍をお前たちに継げて良かったと思っている。平安の世を作り、お前たちに渡す。そうすることで、私の役目はようやく終わる」


 瑞玲ルイリンの気持ちに気づいているのかいないのか、これからは隠遁生活を謳歌しよう、と棗绍ザオ・シャオが呑気に微笑んだ。その微笑みを見て、瑞玲ルイリンは仕方ないが受け入れるしかないという気持ちになった。叔父が全てを投げ打った先に平安の世があり、瑞玲ルイリンたちが生きているのだ。


「……今仰ったことは、兄上には言っているのですか?」

「いや、棗愈ザオ・ユィーには今後も言うつもりはないよ。……あの子は真実を知れば色々と気にするだろうからね。だが、自分で探そうとするのなら別だ」


 棗愈ザオ・ユィーが”厄災を招く子”に関して、四年前から独自に調べているのは棗绍ザオ・シャオも薄々気づいていたのだ。その延長線上にある三百年前の棗轩ザオ・シュエンに関しての出来事を知るのは時間の問題だろう。


「では、もう一つお聞きしたいことがあります。“厄災を招く子”を生かした理由は、姬秀成ジー・シウチェンという前例が居たからですか?」


「その通りだよ。常子远チャン・ズーユエンが厄災を招くと言われるのか、私だけは理由を知っていた。けれども、意地悪で理由を教えなかったわけではない。情報の出所を聞かれれば、どうしても今の話をしないといけなくなる。まあ、それほど隠すようなことではないのだがね。それに、自分で情報を得てこそ情報なのだ。すぐに教えてしまうのは、常子远かれのためにもならない」


 瑞玲ルイリンは答えにようやく納得したようで、小さく息を吐いた。


「……前々から、叔父上に三百歳を超えているという噂はありましたものね。それに、うたた寝をしながら棗轩ザオ・シュエン棗轩ザオ・シュエンとよく仰っていましたし」


 ふふ、といたずらっ子のように微笑んで、瑞玲ルイリンはすぐに常子远チャン・ズーユエン棗愈ザオ・ユィーのいる大きな広場まで駆けていく。目を丸くして驚いた棗绍ザオ・シャオが一人、居龍殿に取り残された。


「…………え? 本当に? 恥ずかしいな」


 頬を紅潮させるその姿は、得体の知れない叔父の顔ではなく、胡劭フー・シャオという名の青年の顔をしていた。


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