第84話 砂のような終焉

 顾奕グー・イーが去ってから、季宗晨ジー・ゾンチェンの息遣いが少し荒くなった。ふと自身の手の先を見やれば、指の先が粉雪のように風に解けていき、徐々に身体が崩壊していく。


「ここまでかな」


 独り言を言う声もかすれている。雷は十年前の復讐相手を射貫いた。そして、頭上にある雷の陣は、季宗晨ジー・ゾンチェンを贄としようとしている。静かな終焉が口を開けて待っている。


「刑罰のために作り上げた陣で、死ぬことになるとは」


 季宗晨ジー・ゾンチェンがゆっくりと目を閉じようとした時、急に風が吹いて、髪が空中に広がった。


「お兄さん!」


 白い煙の壁がすっかり晴れてしまい、その先に少年が立っていた。

 静かな水面のように凪いだ表情をしており、まなざしは強い意思を持っている。


「……本当に成長したね」


 常子远チャン・ズーユエンの足元には、赤い炎でかたどられた巴蛇の陣があった。巴蛇の陣を描いたときに起きる衝撃の風を利用して、香炉の煙を全て吹き飛ばしてしまったのだ。後ろには、秋一睿チウ・イールイ棗愈ザオ・ユィーが立っていて、棗愈ザオ・ユィーは威力増幅の霊符を使って巴蛇の陣を補強している。


「……お兄さん」


 常子远チャン・ズーユエンにもう一度呼びかけられた季宗晨ジー・ゾンチェンは、巴蛇の陣を見つめた。


「君、それ以上はやめておきなさい。暁片の炎が変質している。その炎に身が灼かれてしまうよ。いや、もう灼かれているのかな?」


 火花の爆ぜるような音が、常子远チャン・ズーユエンの身体から発せられている。痛みを堪えるように、顔を顰めながら立っている。


「僕のことは良い。それよりも、お兄さんが一人で死のうとしているのが嫌なんだ」


「別に私のことを構う必要はない」


「僕は、お兄さんがどういう人なのか知りたい。どんなことを経験し、その目で何を見てその頭で何を考えてそこにいるのか。だから、もうすぐ死んでしまうとしても、少しでも多く一緒に居たいんだ」


 常子远チャン・ズーユエンは諭すように語りかけたが、季宗晨ジー・ゾンチェンは髪を乱しながら頭を振った。


「分からない。私は李紹成リ・シャオチァンと手を組んで死体を動かす技術を彼に教えた。言わば、私は君の友が死ぬことになった遠因だ! それなのに……」


「それでも、僕に巴蛇の陣を教えてくれた。外に出られたのは、お兄さんのおかげなんだ」


 常子远チャン・ズーユエンが雷の陣を指すようにして右手を掲げた。巴蛇の陣から、暁片の炎が雷の陣へと徐々に移っていく。紫色の炎は赤い炎に飲み込まれるように侵食され、やがて消えた。


 崩れるようにして、季の身体が地面へと倒れる。


「師父!」


 その光景を後ろで見ていた秋一睿チウ・イールイは、居ても立っても居られなかったのか、季のそばに駆け寄り、手を取った。


「……ごめんね、一睿イールイ。君が私を探しているのも知っていたけれど、ずっと怖かった。私はもう、君が尊敬していた師匠ではない。君たちが育つのを見届けなかったような、身勝手で、潔白ではない人間だ」


「そのようなこと、言わないでください! 私は、師父が生きていてくださって、心から嬉しかったのです。あなたは変わってしまったとおっしゃいますが、私はあなたのことを今も尊敬しています。それに、私が……昔の師父を、あなたが染めたこの黒い衣と共に、ずっと覚えています」


 秋一睿チウ・イールイは羽織っている黒い外套に手を当てた。瞳は揺れていたが、まっすぐな言葉だ。


「そう、か。一睿イールイ、私を覚えていてくれて、ありがとう」


 その言葉を聞いた秋一睿チウ・イールイの頬に、一筋の水滴が流れ落ちる。十年間ずっと師匠の姿を追いつづけた。破門されて消息が分からなくなった師匠を探すことは、他の者には理解されなかった。師匠が墨で染めた外套を着ることに周りには反対され、初めの頃は雪雲閣内でも陰で黒衣と呼ばれた。黒を司るのは玄郭なのも理解していた。それでも、白い外套を着てしまうと、外套を黒く染めるに至った季の心を忘れてしまいそうで怖かったのだ。


 今まで秋が行ってきた、若気の至りと言われて理解されなかったことが、師によるたった一言で報われた。


 だが、取った季の手が、砂のようにさらさらと空気に溶けていく。巴蛇の陣で一度は吹き飛ばされた香炉の煙も出てきて、段々と辺りが白くなっていく。


「え、お兄さん……!?」

「私は跡形もなく消えてしまうだろう。一睿イールイ子远ズーユエンそして、君は……ああ、棗愈ザオ・ユィーだね。……どうしよう。こんなとき、何を言えば良いか分からない……なんて」


 いたずらっ子のような微笑みを残して、季の身体は風に消えていく。そして、季の身体の全てが消える瞬間に、香炉の白い煙により季と三人は分断された。

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