第5話 閉じ込められた鳥

 初めて言葉を交わしたその後も、何日かに一回は鄭蔚文チェン・ウェイウェンと二人になる時間があり、そのたびに話をした。


鄭蔚文チェン・ウェイウェン、”木”ってなに? ”風”は”蕭蕭しょうしょう”と吹くの? ”蕭蕭しょうしょう”と吹かないときもあるの? ”魚”は河を泳ぐというけれど、空は飛ばないの?」


 少年の問いかけに対し、鄭蔚文チェン・ウェイウェンは一呼吸おいてどう話をしようか考えてから口を開くのだった。


「木は……そうだ、私たちの間にあるこれも”木”だよ。この木に触れてみよう。びくともしないし、私たちの身長よりも長いだろう? こんなに大きくなるためには、長い長い年月をかけたのだろう」


 鄭蔚文チェン・ウェイウェンがこつこつと指の背で木枠を叩くのを、少年はじっと見つめてから真似をした。小さく響くような音が鳴る。


「時間がたてばもっと大きくなる?」


「いや、大きくならないだろうね。木は土に根を張って大きくなるんだ。でも、これは切られてしまっているから」


「木は切られて痛くないの?」


「さあ。痛いのかもしれないね。木には口がないから、何を考えているのか私には分からない。さて、先程の”蕭蕭しょうしょう”と吹く風の話だが――」


 話ができるのは他の見張りがいない少しの間だけだったが、まるで雪が積もるように話を重ねていった。


 外の世界について、鄭蔚文チェン・ウェイウェンの故郷について、今の世の情勢、昔ながらの説話、鄭蔚文チェン・ウェイウェンの好きな詩について。


 話が尽きることはなく、鄭蔚文チェン・ウェイウェンの話は巧みであり少年の創造力をかき立てた。


 たとえ暗い世界しか知らないとしても、話を聞いただけで――見たことのない景色も、色も、匂いも、光も、音も、すべて少年の心の中にありありと描けるのであった。



 そのようにして一年ほどが経ち、少年はほとんどの言葉を理解し、流暢に話すこともできるようになった。書物の文字も読むこともでき、詩をそらんじることもできる。

 鄭蔚文チェン・ウェイウェンは、これほど言葉を巧みに使えるのなら、少年が外に出ても苦労することなく生きていけるだろう、と言うようになった。

 

 少年は外の世界を見たいと前々から思っていたが、その思いは日を経るごとに強くなっていった。


 しかし状況はさして変わっておらず、少年は閉じ込められたままであり蔚文ウェイウェンは罪をかぶせられて見張りをしていた。


 悪しき状況は変わっていなくても、今日も蔚文ウェイウェンは少年の向かいにしゃがみこんで話をするのだった。少年は目を輝かせて外の世界の話を聞いていたが、ぽつりと言葉をこぼした。


「……外、見てみたいな。外の世界はどうなっているんだろう?」


「それが、私も外の世界がどうなっているのか分からない。見張りになってからはずっと外に出ていないんだ」


「そうなの?」


 少年は初耳だった。確かに長い間見張りとして立っているが、まさか一歩も出られていないとは思っていなかったのだ。


「そうだよ、いくら労役だとしても酷いだろう。だが、私も君も鳥と同じさ。閉じ込められた鳥であっても、心は空を羽ばたいているんだ」


「……鳥。前に言っていた生き物?」


 ”鳥”は、少年が初めて口に出した言葉であった。少年が頭を傾げると、蔚文ウェイウェンは手を広げて壮大な話をし始めた。


「そうだよ。鳥は空を飛ぶんだ。小さいやつもいれば、大きいやつもいる。そして、小さいやつは高い声で鳴く」


 蔚文ウェイウェンは下手な鳥の鳴きまねをして、少年を笑わせた。蔚文ウェイウェンも穏やかに微笑んでいたが、急に真面目な表情になった。


「……昔、小さい鳥があまりにも綺麗な声で鳴くものだから、その鳥を閉じ込めてしまおうとした人間がいたんだ。なんとか捕まえるのに成功して、鳥は綺麗な声で鳴いた。でも、だんだんと弱っていったんだ。だから、惜しいけれど空に放すことにした。すると、鳥は自由に空を飛んだ。閉じ込められたことなど、覚えていないようにね」


 蔚文ウェイウェンは青い空を見るかのように見上げた。つられるようにして、少年も顔を上げる。そこには、ただ闇があるだけだった。蔚文ウェイウェンが、少年に問いかけた。


「君は、外がどんな風になっていると思う?」


 少年は想像した。光の下の世界を。太陽があり、木々があり、大きな川が流れている世界を。壮大な自然が広がり、動物だけでなく人々が暮らしている。


「僕は――」


 その時であった。


「何をしている?」


 声の主は見張りの一人であった。


 その見張りは気性が荒く、いさかいの末に人を殴りかかり、罪に問われたらしい。氾孟ファン・ マァンが忠告してくれた、他人と諍いになって相手を殴り殺したという噂の流れている男であった。氾孟ファン・ マァンの噂のとおり、もし本当に人を殴り殺していればもっと重い罰となるはずなので、人を殴り殺したわけではなさそうだ。だが、気に入らなければ人を殴るような人間であることに間違いはない。


 二人は話に夢中になるあまり、見張りの足音に気づかなかったのだ。いや、普段やたら大きな足音だったのだが、少年と蔚文ウェイウェンに気づかれないように歩いてきたのかもしれなかった。


 二人に緊張が走る。布をどけて中の少年と話をしているのを蔚文ウェイウェンは見られたため、どう言い訳しようと言い逃れはできそうになかった。


「……ただ、話をしていただけだよ」


 蔚文ウェイウェンは不安や驚きといった感情をすべて腹の底に押し殺して、柔和な笑みを浮かべて言った。


 すると、見張りの男は声を荒げて蔚文ウェイウェンの短衣の襟を掴み、顔を力一杯殴った。鈍い音が空間全体に響いた。


「何故見張りが見張る対象と話す必要がある? 常院楼の人間にそいつのことを問いただしたときに、何があっても中の人間とは話すな、目を合わせるな、と命令されただろうが! ただ、俺らは仕事をすれば良いのだ。こいつを一年見張るだけで、自分に課される刑が軽くなると言われたのに、何故お前はその仕事すらもしない?」


「……私は、自分が正しいと思う行いをしたいのだ」


「くそ、官人さまの言う綺麗事には反吐が出そうだ! お前がこそこそと”何か”をしているのは分かっていたんだよ! いつも顔に貼り付いたような、薄気味悪い笑い方をしやがって」


 少年は木枠を握りしめながら、思わず目をつむった。布を戻すことさえも忘れて、少年は歯を食いしばっていた。


 蔚文ウェイウェンは見張りに何度も殴られて地面に倒れ込んだあと、頭を掴まれて、無理やり違う場所に連れて行かれた。


少年は、木枠から手を伸ばしたが、その手が届くことはなかった。蔚文ウェイウェンが連れて行かれるのを、ただ見ていることしかできなかった。

 

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