第4話 差し伸べられた手

 少年を訪ねてくる者は、少ないながらも時折現れるのだった。沐浴もくよくの器が支給されるよりも長い期間を空けて、“上”の立場の者だと思われる人間が部屋の前に立って言葉を発することもあった。


 布で見えないのになぜ分かるかというと、いつもは怠けている見張りの挙動が張り詰めた糸のようになるからだ。ここから一歩も出たことのない少年であっても、動物的な感覚で上下関係を感じ取っていた。


 “上”の者の声は見張りたちの声よりもかなり低く、言葉一つ一つが少年の身体に刺さるような感覚があった。後に言葉を理解するようになったとき、それは自分を罵っている言葉なのだと知った。


 狭い部屋から出られないこと、部屋の外の人間が自分を罵ることは普通なのだと思っていた。しかし、どうやら普通の境遇ではないらしいことが分かった。


 あるとき、新しく入った見張りの一人が食べ物と共に紙きれを一枚忍ばせて支給するようになったのだ。


 そして、他の見張りが交代する時間を狙い、新入りの見張りは言葉の分からない少年に対し、何かを話しだすのだった。布で隔てられているとはいえ、少年に語りかけているのであろうことが、声色から分かる。


 最初は食べ物の支給の一つかと思い、少年は見張りから渡された紙を食べてしまいそうになった。口に含んでも味はせず、固く繊維質なだけだったので、少年は苦々しい顔をして紙を口から出した。


「……」


 くしゃくしゃになった紙を開くと、少しずつ違う文様が何個も描かれていることが暗がりでも分かった。その様々な文様は整然と並んでいる。


 ――訳が分からなくて紙を放り投げようとしたとき、新入りの見張りが繰り返して話す言葉が少年の頭の中に急に流れ出した。


 なぜ今、見張りの声を思い出したのだろうか? 少年はもう一度、紙に描かれた文様をじっと見つめた。文様を見つめていると、なぜか見張りの言葉が頭の中で流れてくる。それを繰り返すと、一つ思いついたことがあった。


 紙に書かれている文様と、見張りの話す音は対応しているのかもしれない、と。



 何種類もの紙が支給されるようになってから、紙に描かれた文様が何を表しているのか次第に分かるようになってきた。文様は一つ一つ意味を持っているらしい。複数の文様がつながると、意味もつながり広がっていく。


 外には「山」というものがあり、「山」の「深」くには「鳥」が居るらしい。「緑」は「草」や「木」であり、「山」や「河」の付近にあるものらしい。「河」には「流」れがあり、「魚」が居るらしい、という風に。


 少年は紙を読むようになってから、見張りの言葉も聞き取れるようになってきた。見張りがゆっくりと言葉を繰り返してくれるおかげで、言葉の音と形を少しずつ覚えてきたのだ。文様と同じように音の共通点を見つければ、意味を理解することもできる。


 それから、三十回ほど寝て起きるのを繰り返すと、見張りたちが普段会話している内容も少しずつ分かるようになった。


 まだ言葉を交わすことはできなくとも、少年は自身の置かれている状況についても理解しはじめた。少年は城歴じょうれき李氏という権力者によって閉じ込められているらしい。何度も何度も、城歴、李氏、常院楼という言葉が見張りたちの話に出てくるのだ。


 たまに少年の元を訪れては罵っていく位の高そうな”上”の者は、城歴じょうれき李氏の主である李绍成リ・シャオチァンであろうことも彼らの話から推測できた。


 しかし、李绍成リ・シャオチァンが少年を閉じ込める理由は、少年本人も思い当たらない。見張りたちは少年のことをもっぱら大罪人なのだと噂しているが、罪を犯した記憶はなかった。



「君はここから出るべきだ。……閉じ込められた鳥と同じなのだから」


 鄭蔚文チェン・ウェイウェンはいつものように食べ物を渡した後、優しい声で少年のいる場所に向かって語りかけた。李绍成リ・シャオチァンが罵る声とは全然違うように少年には感じられた。李のように身体を貫くような鋭い言葉ではなく、じわりと心の奥が温かくなるような声だ。


 蔚文ウェイウェンとしては、返答を期待していない独り言のようなもので、水面に石を投げるように一方的だったのだが。


「……鳥?」


 少年が蔚文ウェイウェンに返答したのだ。いつも見張りが発している言葉の真似をしていても、少年が実際に人に向かって言葉を話すのは初めてだった。文字を一つ発するだけなのに、少年の体は強張って息もつまりそうだった。それでも頭の中で声の高さや低さを確認する。口を動かして、喉を震わせる。見張りの言葉の調子を真似るようにして、ようやく言葉を形作ることができた。


 「鳥」は、蔚文ウェイウェンに教えてもらった詩にも書いてあった言葉だ。分かったのが嬉しくて、蔚文ウェイウェンの言葉に言葉を返したいと思った。いつもきちんと食べ物を持ってきてくれて、からかったり罵ったりすることもない。この人なら、自分に危害を加えてくることは無さそうだ、と思ったのだ。


「君……! 言葉が分かるようになったのか、囚われの子よ! ああ、言葉が返ってくるのが、こんなにも嬉しい事だとは!」


 少年が鳥と一言発しただけなのに、蔚文ウェイウェンは声高になり、木枠を力強く掴んだ。顔は見えなくとも、見張りの青年が喜んでいるのが少年にも分かった。たかが言葉が分かったくらいでこんなに喜ぶのかと少年は思ったが、きらきらと輝くような声を聞くのに悪い気はしなかった。後から思えば、人の嬉しそうな声を聞くのはあれが初めてだった。


 蔚文ウェイウェンは興奮した様子で言葉を続けた。


「君、布をどけてくれないか! 私の名は鄭蔚文チェン・ウェイウェンと言うんだ」


 少年が木枠に近づいて、恐る恐る布を束ねて開けると、暗がりの中に人の良さそうな青年の顔が近くにあった。


 身体は少年よりも一回り以上も大きく、少年と目線を合わせるようにしてしゃがんでいる。暗くてよく見えないが、髪の短い他の見張りとは違い、髪を頭の高い位置でまとめている。


チェン蔚文ウェイウェン……」


 つっかえながらも少年が名を呼ぶと、鄭蔚文チェン・ウェイウェンは上品に口角を上げた。


「流石だ。発音も上手にできている。耳が良いのだろうね」


 このように誰かに褒められたことは初めてだった。自分に向けられた言葉は甘美で、何にも代えがたい喜びが少年を支配した。もっと話をしたい。もっといろいろな言葉を知りたい。もっと、もっと。


「――――ああ、まだ話していたかったが私は戻らないといけない、くれぐれも君が話せることは秘密に、な」


 蔚文ウェイウェンは辺りを見回しながら声を潜めて立ち上がり、すぐに背を向けて歩き出した。


「え……あっ…………」


 少年は突然のことに驚いて持ち上げていた布から手を放してしまい、布は目の前にだらりと垂れた。先程まで言葉を交わしていたのが噓のように、今までと同じような暗い世界が戻ってきた。遠ざかる足音が少年の耳にも聞こえていたが、時間の立たないうちに静かになった。随分と名残惜しそうな顔をして、少年はしばらく布をじっと見つめていた。


 しばらくすると蔚文ウェイウェンとは違う見張りが二人やってきて、怠そうに部屋の前に立ちながら何かを話し始めた。他の見張りの声を聞いても、蔚文ウェイウェンの言葉に勝るものはないと少年は思った。


 その日の夜、蔚文ウェイウェンとの対話を何度も何度も思い出して、少年は眠りにつくのだった。

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