第6話 毟られた羽根

 鄭蔚文チェン・ウェイウェンがどこかに連れ去られてから半刻ほどが経ち、その間少年は、彼が戻ってくるのをずっと待っていた。


 見張りは鄭蔚文チェン・ウェイウェンを引きずって土の階段を上っていったことから、どうやら”外”に行っただろうことが分かっていた。だが、一向に戻ってくる気配はなく、どんなに少年が希望的観測をしても、鄭蔚文チェン・ウェイウェンが自由の身になって外に行ったとは思えなかった。


 そして少年は、何かのうめき声を見に行って、帰ってこなかった見張りがいたことを思い出した。


 あれが、鄭蔚文チェン・ウェイウェンの身にも起こっているとしたら、彼は二度とここに戻ってこないだろう。


「……どうしよう」


 少年は、急に自分のしてしまったことが恐ろしくなった。自分と言葉を交わしてしまったから、鄭蔚文チェン・ウェイウェンは殴られてどこかに連れて行かれたのだ。”外”に憧れてしまったから、急にこんなことが起きてしまったのだ、と。


 蔚文ウェイウェンのことを思うと、心がねじ切れてしまいそうだった。見張りたちの言うように自分は大罪人なのではないか、と全てが疑わしくなる。後悔の感情が広がるように押し寄せる。言葉を知っていても、少年にとって初めて味わう得体の知れない感情だった。


 しばらくして、恰幅の良い人間が数人引き連れて階段を下りてきた。李绍成リ・シャオチァンやその部下達数人らしかった。この人間たちは”外”から来たのだと、少年は直感的に思った。


 少年のいる部屋の前に立ち、李绍成リ・シャオチァンが嫌そうな顔をして辺りを見回す。


鄭蔚文チェン・ウェイウェンよ、命に背くとはな。命じられたことのみを行えば良かったものを……」


 少年は、鄭蔚文チェン・ウェイウェンもその人間たちの中に立っているのを見つけた。


 しかし、少年の喜びもつかの間であった。

 

 彼が立って歩いているように見えたのは、縄で縛られて、後ろに立っている人間に吊られるようにして無理矢理立たされているのだった。彼はよく見ると全身傷だらけで、微笑む余裕すらなさそうだった。


 まだ”死”ではない。でも、”死”に近いのは明らかだった。


「……おかしいよ! なぜこんな酷いことをするの!」


 少年は思わず言葉を口に出し、木枠を拳で叩いた。


 鄭蔚文チェン・ウェイウェンを殴りつけて連れて行った見張りも、部下たちの中に居る。少年はその見張りを、目の前にいる李绍成リ・シャオチァンたちを睨んだ。


 すると、李绍成リ・シャオチァンが少年を見て驚いたように目を見開いたあと、少年に向かって吐き捨てるように言った。


「”厄災を招く子”よ。汚らわしい存在のくせに、そのように話せるようになるとはな。……話せるようになり、こいつを甘言で惑わしたか? いや、そんなことはどうでも良い。”厄災を招く子”よ、この男の惨たらしく死ぬ様をしっかりと目に焼き付けよ。すべてはお前のせいなのだから」


 少年への罵倒を聞いた鄭蔚文チェン・ウェイウェンは、かっと全身の血が沸き立つのを感じた。


「……あなたは、彼になんてことを言うんだ……!!」


 蔚文ウェイウェンは痛みをこらえるように顔をしかめ、歩くのでさえもままならぬほど傷だらけであるのに、前に向かって進んでいく。


 蔚文ウェイウェンを縛っている縄を持っていた人間は気を抜いていたのか、引っ張られるようになって縄をぱっと手から放してしまった! 


 自由の身となった蔚文ウェイウェンは、重い体を引きずるようにして少年に近づき、木枠を掴んで少年に向かって叫んだ。


「私は……問題ない、だから、君は外に、いつか、いつか出てくれ……。本当は、共に行けたら……良かったのだが…………!」


 どこをどう見ても、誰が見ても彼は”問題ない”わけではないのに。


 誰もが、蔚文ウェイウェンはもう動くことすら出来ないだろうと思っていたので、あっけにとられるようにしてその様子を眺めてしまっていた。


鄭蔚文チェン・ウェイウェン! いやだ、僕は……僕はあなたと共に外へ出たい……!」


 少年は今まで出した一番大きな声で叫んだ。たとえこの後、見張りに体を叩かれたとしても、殺されたとしても、蔚文ウェイウェンに言葉を伝えなければいけないと思った。


「ああ、その言葉を聞くことができただけで……私は満足だ」


 蔚文ウェイウェンは傷だらけの顔で笑みを浮かべた。その表情は、どこか諦めてしまったようだった。


 蔚文ウェイウェンは見張りたちに再び捕われた。後ろ手で拘束され、殴られ足を蹴られ、もう二度と立てないだろうと分かるくらい痛めつけられている。


「――始めよ」


 そして李绍成リ・シャオチァンが何かを命じ、蔚文ウェイウェンを逃げられないように縄で縛り直して動けないようにして、座らせた。


 それを見届けた李绍成リ・シャオチァンは、部下を一人だけ残して、見張りと共にこの場所を去った。


 部屋の外で時折微かに聞こえていたうめき声が次第に大きくなる。


 そして、現れたのは生きた人間ではなく、死体であった。

 たどたどしい足取りはまるで踊っているかのようで、乾いた皮膚に焦点の合わない目をしている。その口からは言葉にすらならない音が絶えず聞こえている。


 一人残された李の部下は遠くの方で死した者を操り、今なお動こうともがいている蔚文ウェイウェンに向かわせている。


 そのとき、少年は直感的に理解した。李の部下は操った死体に蔚文ウェイウェンを襲わせようとしているのだ、と。


「危ない! やめろ、鄭蔚文チェン・ウェイウェンを傷つけるな…………!」


 少年の願いむなしく、操られた死体は蔚文ウェイウェンに近づいて、鋭い爪を振り下ろした。


 蔚文ウェイウェンの背中に爪が食い込み、衝撃で前かがみになった。だが、顔をゆがめながら、彼は上体を起こした。しかし、何度も何度も傷をなぞるようにして蔚文ウェイウェンの身体を切りつけた。彼は血を吐きながら木枠にもたれるように正面から倒れ込んだ。身体を縛っていた縄は切れたが、もうすでに腕や足は動かなくなってしまっている。


 木枠や布は血で濡れ、次第に吐く息の音が小さくなっていく。少年は木枠の外へ手を伸ばし、血に塗れるのもかまわずに蔚文ウェイウェンの頬に触れた。


「いやだ、いやだよ……!」


 息の音がついに聞こえなくなった時、少年の目の前が白い靄がかかったようにぼやけた。時の経たぬうちに、少年の頬を水のようなものが流れ落ちていった。少し遅れて、今涙を流したのだと少年は自覚した。


 涙は悲しいときにも流れるのだ、と蔚文ウェイウェンが前に言っていたことを思い出す。涙を流して、初めて人の死は悲しいことなのだと知った。


 そして操られた死体はあろうことか、蔚文ウェイウェンの死体を引きずり、貪り、噛み千切り、血を啜った。肉片や血が飛び散り、少年にも降りかかる。少年の頬に流れているのは、自分のが涙なのか蔚文ウェイウェンの血なのか、すでに分からなかった。


「やめろよ……! なんでこんなことをするんだよ……!」


 声がかすれても、止むまで少年は叫び続けていた。


 閉じ込められた鳥であっても、心は大空を羽ばたいている。だが、もしも外へ出られるのなら、あなたと共に生きたかったのだ。

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