第4話 毟られた羽根

 鄭蔚文チェン・ウェイウェンがどこかに連れ去られてから半刻ほどが経ち、その間少年は、彼が戻ってくるのをずっと待っていた。


 どうやら彼らは”外”に行っただろうことが分かっていた。だが、一向に戻ってくる気配はなく、どんなに少年が希望的観測をしても、鄭蔚文チェン・ウェイウェンが自由の身になって外に行ったとは思えなかった。


 そして少年は、何かのうめき声を見に行って、帰ってこなかった見張りがいたことを思い出した。


 あれが、鄭蔚文チェン・ウェイウェンの身にも起こっているとしたら、彼は二度とここに戻ってこないだろう。


 少年は、急に自分のしてしまったことが恐ろしくなった。


 自分と言葉を交わしてしまったから、鄭蔚文チェン・ウェイウェンは殴られてどこかに連れて行かれたのだ。”外”に憧れてしまったから、急にこんなことが起きてしまったのだ、と少年は悔やんだ。


 悔やむ、という得たいの知れない感情に少年が苦しんでいると、李绍成リ・シャオチァンやその部下達数人がぞろぞろと少年の前にやってきた。この人間たちは”外”から来たのだと、少年は直感的に思った。


 鄭蔚文チェン・ウェイウェンもその人間たちの中に立っていた。


 しかし、少年の喜びもつかの間であった。

 

 彼が立って歩いているように見えたのは、縄で縛られて、後ろに立っている人間に吊られるようにして無理矢理立たされているのだった。彼はよく見ると全身傷だらけで、微笑む余裕すらなさそうだった。


 まだ”死”ではない。でも、”死”に近いのは明らかだった。


「おかしいよ! なぜこんな酷いことをするの!」


 少年は思わず言葉を口に出し、牢の木枠を拳で叩いた。


 鄭蔚文チェン・ウェイウェンをどこかに連れて行った見張りもその人間たちの中に居て、少年はその見張りを、目の前にいる人間たちを睨んだ。


 すると、李绍成リ・シャオチァンが少年を見て驚いたように目を見開いたあと、少年に向かって吐き捨てるように言った。


「”厄災を招く子”よ。汚らわしい存在のくせに、そのように話せるようになるとはな。こいつを甘言で惑わしたか? いや、そんなことはどうでも良い。”厄災を招く子”よ、この男の惨たらしく死ぬ様をしっかりと目に焼き付けよ。……すべてはお前のせいなのだから」


 李绍成リ・シャオチァンの少年への罵倒を聞いた鄭蔚文チェン・ウェイウェンは、かっと全身の血が沸き立つのを感じたのか酷い形相をして、歩くのでさえもままならぬほど傷だらけであるのに前に向かって進んだ。


 鄭蔚文チェン・ウェイウェンを縛っている縄を持っていた人間は気を抜いていたのか、引っ張られるようになって縄を手から放してしまった! 


 自由となった鄭蔚文チェン・ウェイウェンは、体を引きずるようにして少年に近づき、牢の木枠を掴んで少年に向かって叫んだ。


 誰もが、鄭蔚文チェン・ウェイウェンはもう動くことすら出来ないだろうと思っていたので、あっけにとられるようにしてその様子を眺めてしまっていた。


「私は……問題ない、だから、君は外に、いつか、いつか出てくれ……。本当は、共に行けたら……良かったのだが…………!」


 どこをどう見ても、誰が見ても彼は”問題ない”わけではないのに。


鄭蔚文チェン・ウェイウェン! 嫌だ、僕は……僕はあなたと共に外へ出たい……!」


 少年は今まで出した一番大きな声で叫んだ。たとえこの後、見張りに体中を叩かれたとしても、殺されようとも、鄭蔚文チェン・ウェイウェンに言葉を伝えなければいけないと思ったのだ。


「ああ、その言葉を聞くことができただけで……私は満足だ」


 鄭蔚文チェン・ウェイウェンは傷だらけの顔で笑みを浮かべた。その表情は、どこか諦めてしまったようだった。


 チェンは見張りたちに再び捕われた。後ろ手で拘束され、殴られ足を蹴られ、もう二度と立てないだろうと分かるくらい痛めつけられている。


「――やれ」

 そして李绍成リ・シャオチァンが何かを命じ、チェンを逃げられないように縄で縛り直して動けないようにして、座らせた。


 それを見届けた李绍成リ・シャオチァンは、部下を一人だけ残して、見張りと共にこの場所を去った。


 部屋の外で時折微かに聞こえていたうめき声が次第に大きくなる。


 そして、現れたのは生きた人間ではなく、死体であった。

 たどたどしい足取りはまるで踊っているかのようで、乾いた皮膚に焦点の合わない目をしている。その口からは言葉にすらならない音が絶えず聞こえている。


 一人残された李氏の部下は遠くの方で死した者を操り、今なお動こうともがいているチェンに向かわせている。


 そのとき、少年は直感的に理解した。李の部下は操った死体にチェンを襲わせようとしているのだ、と。


「危ない! やめろ、鄭蔚文を傷つけるな…………!」


 少年の願いむなしく、操られた死体はチェンに近づいて、鋭い爪を振り下ろした。

 チェンの背中に爪が食い込み、衝撃で前かがみの体勢となったが、顔をゆがめながらも彼は起き上がった。しかし、何度も鋭い爪が傷をなぞるようにチェンの身体を切り裂き、彼は血を吐きながら牢の木枠に倒れ込んだ。身体を縛っていた縄は切れたが、もうすでに腕や足は動かなくなってしまっていた。木枠や布は血で濡れ、次第に息の音が小さくなっていく。


 息の音がついに聞こえなくなった時、少年の目の前に白い靄がかかったようになった。時の経たぬうちに頬を水のようなものが流れ落ちていった。少し遅れて、今涙を流したのだと少年は自覚した。


 前に、涙は悲しいときに流れるのだとチェンが言っていたことを思い出す。涙を流して、初めて人の死は悲しいことなのだと知った。


 そして操られた死体はあろうことか、チェンの死体を貪り、噛み千切り、血を啜った。肉片や血が飛び散り、それは少年にも降りかかった。


 少年の頬に流れているのは、自分のが涙なのかチェンの血なのか、すでに分からなかった。


「やめろ、やめろよ……! なんでこんなことをするんだよ……!」

声がかすれても、それが止むまで少年は叫び続けていた。


 閉じ込められた鳥であっても、心は大空を羽ばたいている。だが、もしも外へ出られるのなら、あなたと共に生きたかったのだ。

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