第70話 十年前の追憶

 時は本永八年。つまり現在から十年前、妖鬼を討伐する者たちを束ねる職に就いたのは、成人したばかりの若者、季宗晨ジー・ゾンチェンだった。


 彼は剣の腕では雪雲閣で彼に勝てる者はいないという噂が立つほどの使い手である。齢十七にして剣技の一連“桃英水落”を作ったことが大きい。白虎に伝わる技“梅花雪落”と似て非なる技だ。


 顔立ちがはっきりとしており、柳のような眉が印象的だ。波打つような独特の髪に、雪のように白い肌。そして何より、血のような赤い瞳は見る者を惹きつけた。


 季宗晨ジー・ゾンチェンは白虎であることを示す白い外套を着用し、まじないに関する勉強をするために、竹簡の束を抱えて静虎殿に向かって颯爽と歩いていた。


「師父! ここにいたのですか! 見てください、銀糸で梅の花を作ってみました!」


 そう言って走ってきたのは、今年で十二になる冷懿ラン・イーだ。陽光を浴びてきらきらと輝く銀糸の細工を両手に乗せている。


「すごいねえ、懿懿イーイー。君は銀糸を操るのが得意だね」

「はい! ありがとうございます」


 花が咲くように顔をほころばせた冷懿ラン・イーの後ろから、十四歳の秋一睿チウ・イールイがゆっくりと歩いてくる。


「師父。麻燕マー・イェンと共に龍が出る噂の山に行ってきたのですが、見つけたのは蛇だけでした」


 その手には、翼の生えた蛇が握られている。


一睿イールイ。それ、翼があるから本当に龍の子かも…………?」

「え?」


 秋一睿チウ・イールイの手からするりと逃げて蛇が飛んでいく。

 それを見た季宗晨ジー・ゾンチェンが思わず噴き出した。


「師父のせいで逃げた……」


 表情は乏しくとも秋一睿チウ・イールイが落胆しているのが伝わってくる。


「逃げて正解だよ。だって、君は翼の生えた蛇の好物を知っているのかい?」

「知らない……」

「だろう? 飼っても蛇を不幸にさせるだけだよ。ほらほら二人とも、鍛錬を始めよう」


 季宗晨ジー・ゾンチェンは自身の勉強の予定をとりやめて、二人の弟子の剣術の鍛錬の様子を見ることにした。身長が伸び盛りとはいえ、まだまだ小さな二人の背を促すように押して歩く。


 その後、いつものごとく鍛錬をする広場で二人の剣の指導をしていると、書部の谢博シエ・ボーが紙鳥を手に持ち慌てて走ってきた。


白虎殿びゃっこどの! 東弥道で門と門の戦いが起こっているそうです! 妖鬼の好む地だそうで、人の住む場所からは少し離れていますが、黄龍殿こうりゅうどのから仲裁をお願いしたいとの申し出がありました。青龍殿せいりゅうどのも向かうそうです」


「黄龍殿から紙鳥が来たのかい。分かった、すぐに向かうよ。手が空いている門下の者も東弥道へ向かわせてくれ。呪部じゅぶは雪雲閣の守りを頼む。途中になってごめんね二人とも、お互いに剣を教え合ってみて」


「「はい!」」


 棗绍ザオ・シャオからの紙鳥を確認して指示を出すと、季宗晨ジー・ゾンチェンは袖から折りたたまれた紙馬しまを出し、息を吹きかけた。


紙馬しまよ、東弥道まで向かってくれ」


 瞬く間に馬の形となった白い紙馬に飛び乗り、季は颯爽と駆けていく。


 天弥道の地は、十年前までは東弥道と西弥道に分けて呼ばれていた。海や永河にも近い東弥道、儀仙堂や帝の住まいからも近い西弥道は交通・交易の要衝として古くから栄えてきたのだ。東弥道には荒い気風を持つ者も多くいるため、自治組織としての小さな門が沢山存在する。今回の戦いは、その門下の者たちが引き起こした勢力争いらしい。


 しかし、門下生から報告があった東弥道の森の中は、異様な雰囲気に包まれていた。


「何だこれは……」


 季が紙馬から降りて地面に足をつけると、尋常ではない数のまじないが土地に張り巡らされているのを感じたのだった。


「妖鬼を引き寄せるまじない、不祥を呼び寄せるまじない……邪術の類か」


 どうやらこれは単純な門と門との争いではなさそうだった。東弥道には、このように邪術を土地に張り巡らせるような技術を持った勢力はいない。では、いったい誰がこのような術をかけているのか。状況は良くないことが予想され、季は気を引き締めた。


 季は紙馬を畳み、争いの起こっていると報告のあった門へと歩みを進める。

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