第69話 暴君の真意

 姬陶ジー・タオが贄となる日が訪れた。すっかりやつれてしまった王が目の前に立っている。


姬陶ジー・タオよ。今からお前を贄とし、邑の行く末を占う」


 王はそう言ったが、姬陶ジー・タオは今更贄となる気はなかった。戦を生き延びた先で出会った敵の王に重用され、彼を敬愛していたまなざしはすでに無い。今まさに王に殺されようとしている人間が、王を殺そうと冷ややかな目で見つめているのみだ。


 王が短い刀を手に、姬陶ジー・タオに一歩近づいた。


 数多の臣下たちが贄となり、血の匂いがこびりついた建物の中で、姬陶ジー・タオは静かに”その時”が来るのを待った。


「待て、これは何の音だ……?」


 遠くから、火の爆ぜるような音が聞こえてきたのだった。始めは小さな音だったが、徐々に音が大きく激しくなっていき、建物が軋むような、悲鳴のような音をあげ始めた。


 姬陶ジー・タオは王の問いに答えなかったが、薄い笑みを浮かべた。贄となる前に辞めていった臣下の一人に、この建物に火をつけることを頼んだのだ。


 減った臣下の代わりに働かされていた人間たちが燃えているのだろう、小さく叫び声が聞こえる。姬陶ジー・タオはその声を聴き、心を痛めた。


「王よ。太陽が墜ちる時が来ました」


 姬陶ジー・タオは立ち上がり、王を見据えた。王はいつになく、小さく見えた。

 瞬く間に建物は燃え盛り、辺りは赤い炎に包まれた。懐に持っていた短剣”暁片”を手にし、素早く王の脇腹を刺す。


姬陶ジー・タオ…………!」


 刺された王は膝から崩れ落ち、息を荒くしている。髪は乱れ、脇腹の辺りに血が滲んでいるのが見えた。王を刺すことが簡単すぎて、姬陶ジー・タオは静かに驚いていた。


 姬陶ジー・タオはしばらく苦しむ王を見つめていたが、ずっと感じていた疑問を口にした。


「……あなた様は、人を贄とするのはお嫌いだったではありませんか」


 すると、王は穏やかに話し始めた。最近の王は、怒鳴るか無視するかあざ笑うかのどれかしか反応はなかった。


「猶予がなかったのだ。民は、政に失敗した王を許さないだろう」

「ですが、臣下を殺す必要はなかったはずです。呉植、張回たちも」


 呉植や張回は、本心はどうであったか分からないが、捕虜の身であった姬陶ジー・タオに対しても分け隔て無く接してくれた数少ない人物だった。


「彼らには申し訳ないことをした。王は狂っている――そう思われることで、民の怒りを集約するためだった。飢餓も、病も、戦いも、すべて王のせいだと」


「そう仕向けた先に、一体何があるというのですか……! ここにはもう、誰も居なくなってしまったというのに!」


 姬陶ジー・タオは王の肩を掴み、叫んだ。その言葉を聞いた王が力なく笑った。


「そう仕向ければ、このようにして、お前が殺してくれるだろう? 民は、王を悪とすることで生きる希望を持ち続けられる。そのようにして、平安の世が保たれるのだ。誰かが悪とならなければならないと思い立ち、それならば王が悪になるべきだと思った。民が今の苦しい世でも生きていくには、それしか良い案が思い浮かばなかったのだ」


 王は狂ってなどいなかったらしい。冷静な判断で、狂うふりをすることを決断したのだ。贄となったのは、紛れもなく王自身だった。


「支えていた太陽を砕くのは、お前が適任だと思った。正直疲れたのだ、飢餓に災害、終わらない戦いに民からの要望や期待にも、臣下たちの視線や人間関係にも、何もかもに。女に溺れるのも、酒に溺れるのも、虚しいだけだ」


 姬陶ジー・タオはそれを聞いて、取り返しのつかないことをしてしまったと思った。剣を刺した王の脇腹を手で押さえようとした。


「私に、相談してくだされば何か……何か少しでも、あなた様の心を軽くすることができたかもしれない」


「もう遅い、遅いのだよ。何もかもが」


 王は臣下を沢山殺した。姬陶ジー・タオは、王を刺してしまった。時間は戻らない。


「そんな……」


「許せ。”王”を全うできなかった」


 そう言い残して、王はこと切れた。



 火が燃え盛る。姬陶ジー・タオの手は王の血に濡れている。王の身体がみるみるうちに焼けていく。焦げたような臭いが鼻につく。


 その時だった、手にしていた暁片が溶けるように姬陶ジー・タオの身体に入っていったのは。暁片にかけられたまじないは素晴らしく、その身は炎に包まれることはなく、火に傷つけられることもないのだった。


「…………死にたい」


 王の計画にはまり、敬愛する王を殺してしまった罪悪感で姬陶ジー・タオは身体ではなく心が焼けそうだった。身を守るまじないがかけられた暁片のせいで、王と共に炎の中で死ぬことは許されない。それは姬陶ジー・タオには王からの罰であるように思えた。


 炎の中でただ一人、無傷の人間が立ちすくんでいた。それは建物が焼け落ちるまで続いた。


 民は”暴君”である王を殺した姬陶ジー・タオを称え、次の王となることを望んだが、姬陶ジー・タオは自身を王殺しの大罪人として、刑を自らの身に課した。暁片のまじないにより身体を傷つけて死ぬことはできないため目を隠し、手足を拘束し、自身を暗い闇の中に閉じ込めた。それが、幽閉の刑のはじまりとされる。



「面白いものを見せてもらったよ、これが暁片の真実かい?」


 常子远チャン・ズーユエンの寝ている上に覆いかぶさるようにして、季宗晨ジー・ゾンチェンがくすりと笑った。その左手には暁片の柄が握られており、刃がもうほとんど身体から出てきている。


「痛い…………いたいよ、ねえ、今のは、なに?」


 常子远チャン・ズーユエンの、泥のように混ざり合った瞳が季宗晨ジー・ゾンチェンをぼんやりと見つめる。目から涙は絶えず流れ出し、揺れるように滲んだ世界が見える。暁片が取り出されようとしているため、常子远チャン・ズーユエンの手足は微かに痙攣し続けている。それを制するように、季宗晨ジー・ゾンチェンは空いているほうの右手で常の手を握るように触った。


「今見たものは、君の先祖、王の臣下の記憶だろうね。王を殺す計画が他でもない本人に仕組まれていたことなんて、なんて悲しいことだろう」


 季は歌うように囁いた。波打ったような髪の先が常子远チャン・ズーユエンの身体の上に落ちる。


「……ねえ、お兄さん。僕、お兄さんに暁片は渡さないよ」


 血が逆流するように、常の身体中が熱くなっている。常は暁片の柄を、季が握っている上から両手でつかんだ。


「お兄さんに取られても、僕が取り返す。誰にも渡したくない。今の光景を見たら、なおさらそう思ったんだ」


 常の意志の強い瞳がまっすぐに季を見つめる。


「君は見ないうちに成長したのだね。だけれど、私は主に逆らえない」

「人の物を奪おうとする主なんて、従う必要ないよ」


 常の言葉を聞き、季は遠い目をした。


「うん。でも、私を罰してくれたのは、あの人しかいなかった」

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