第66話 始まりの地

 赤黒い陣が闇に溶けるように消える。常子远チャン・ズーユエンが赤い目の青年、季宗晨ジー・ゾンチェンの袍の袖を掴んだ。倒れた玄武、智墨辰ヂー・モーチェンの安否が気がかりで仕方が無いのか、常の瞳は微かに揺れている。


「ねえ、お兄さん。玄武さんはどうなったの?」

「香で眠らせているだけだよ。しばらく経てば目を覚ますだろう」

「よかった」


 智墨辰ヂー・モーチェンが無事だと聞いて、常子远チャン・ズーユエンは少し安心した。


「お兄さんは僕を助けに来た…………わけじゃなさそうだね」


 智墨辰ヂー・モーチェンは牢の中の常子远チャン・ズーユエンに対して刺々しい態度をとっていたが、彼の性根の聡明さを常は感じ取っていた。その玄武が毒だと忠告するほどの物を使ったのだ。いくら常院楼の牢から出る術を教えてくれた恩人とはいえ、目の前の青年を警戒してしまうのだった。


「助ける……玄郭の牢から君を助けるってことかい? 残念ながら、そのためじゃない。わざわざ天狗の移動陣を使って、君が育った常院楼の地下に来る理由がないよ。全ては始まりに回帰する。暁片を手に入れるために、私は君に会いに来たんだ」


 季宗晨ジー・ゾンチェンは辺りを見回して、薄く笑った。常は底冷えする地下の寒さに腕をさする。そして、同じように辺りを見回す。常の育った場所――常院楼の地下牢は暗く静かで、二人以外には誰も居ないようだった。


「お兄さんも暁片が欲しいの?」

「私じゃないよ。私は命じられているだけ」


  常は暁片を欲しがる人間に慣れてしまって、驚くこともなく尋ねた。季宗晨ジー・ゾンチェンは興味がなさそうな顔でそれに答えた。常の好奇心は止まらない。


「誰にそう命じられたの?」

「……そこは伏せておこうかな。あるじに怒られてしまうからね。それよりも、暁片について私なりに考えてみたんだ。暁片の導き手と呼ばれる理由についても」


 季が地面に座り話を始めたため、常もつられて座った。

 常はそのあるじが誰なのか気になったが、暁片の導き方は常自身でさえも知らない。小さくても手がかりがあれば、知りたいのだった。


「お兄さんは、僕がどうやって暁片を導くか分かったの?」

「先ほど、玄郭の人間を眠らせてきたときに、暁片についてまとめられている書を見つけたんだ。暁片について調べている君のために、玄郭げんかくの政主が書いた物だろうね」


 そう言いながら、季がどこからか紙を数枚取り出した。


「玄郭の政主さんが?」


 そう聞き返してから、常は于涵ユィー・ハンが暁片の書物を読み進めていると言っていたのを思い出した。


「この紙によると、暁片というのは王が臣下に賜った短い剣だね。青銅でできていて、柄の部分には太陽をかたどった文様が施されているという。私が思うに、この文様はまじないだ。今の時代にはもう形だけになってしまって廃れているものだが、言い伝えにある事物――例えば神や瑞獣をかたどり、気を送ることにより、それぞれの文様に応じた効力を発揮するんだ。私の使う陣もこれを応用したものでね…………ごめん、暁片の話から逸れそうになったね」


 はっと我に返った季は、照れたのか咳払いをした。


「いいよ、お兄さんの話聞きたい」


「そう。ありがとう。でも時間がないから暁片の話をしよう。この書物によると、暁片は王に作られたが、王を殺すための道具となったらしい。聡明だった王は不作や天災によりたくさんの民が死んで、狂ってしまった。政から逃げるように女性や酒に溺れるようになった。そして自分を諫めた自分の部下を、次々に天への贄としたようだね。自分に都合の悪い人間も消せるし、この地も鎮められる。王に反感を覚えた部下の一人が、王を殺したというのが結末らしいね」


 紙に書かれた文章を読み終えた季は、顔を上げて常を見つめて、それから言葉を続けた。


「でもこの王、狂ってしまったにしては、筋が通った考え方をしているように見えるけれどね。嫌な部下を贄として消すのは、ある意味では合理的だ」


 常の家族を贄としたという李紹成リ・シャオチァンと同じだ、と常は思った。都合のよい人間がそこにいたから、贄となった。牛や羊がそこにいたなら、代わりに贄となっていただろう。


「合理的か……。うん、王は狂ったように見えなかった気がする」

「……見えなかった? 君はその王を見たことがあるのかい?」


 常は、炎の中で安らかな顔をしながら死んでいる王を思い出していた。だが、それは死んだ後の王であり、その次に見た姬陶ジー・タオと話している聡明そうな王は、狂う前の王だろう。だから王が狂った場面を常は見ていない。


「本当なのかは分からないけど、見たよ」

「そうなんだね。君はやはり、暁片を導く子なのだろう」

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