第85話 炎に舞う

 三人は何も言わずたたずんでいた。霧が晴れるように、煙が薄くなる。そこに、季宗晨ジー・ゾンチェンの姿はなかった。


 そのとき、暁片の妖の焦った声が、常子远チャン・ズーユエンの頭の中に響いた。


「……おい、姬陶ジー・タオの子孫よ! 季が言ったとおり、暁片の力が変調をきたしている! このままでは、貴様の身体が危ない! なにが、”僕のことは良い”だ! 貴様は本当に、厄災を招いてしまうぞ!」


 その言葉通り、急に常子远チャン・ズーユエンの身体から力が抜けたようになって、膝が地面へと落ちた。胸の辺りが締め付けられるようになって、じわじわと痛くなってきた。”厄災を招く子”には死を、暁片は人の世を狂わせる、などという人々の怨嗟の声が脳内にこだまする。それからともなく、常子远チャン・ズーユエンの身体から、赤い炎が上がる。


「あ、あつい……!」


 どこからともなく、討伐され尽くしたはずのが常に引き寄せられるように、影から人の形となり沸いて出てくる。秋一睿チウ・イールイが辺りを見回し、剣を抜いた。剣による雪がどこからともなく現れては、融けて消える。


「大丈夫か、常子远チャン・ズーユエン! まさか、はこの炎に集まってきているのか……?」


 秋一睿チウ・イールイは”梅花雪落ばいかせつらく”の剣技を繰り出し、の身体を細かく切り刻んだ。たちまち砂のように消えていったが、新たにが絶え間なく現れていく。


 秋が剣で戦うのを見て、棗愈ザオ・ユィーも”為天”を構えた。湧き出てくるを四方に妖鬼避けの霊符を飛ばすが、飛ばした直後にふらりと倒れる。


「おい、棗愈ザオ・ユィー!?」


 秋が駆け寄った。棗愈ザオ・ユィーは霊符を使いすぎたためか、の悪しき気のせいなのか分からなかったが、ただ気を失っているだけのようだった。


 しかし安堵したのもつかの間、 常子远チャン・ズーユエンの身体から出現した赤い炎が渦のように大きくなり、秋と棗愈ザオ・ユィー、二人の周りを蛇のように取り囲んだ。


常子远チャン・ズーユエン常子远チャン・ズーユエン! おい、聞こえているのか!?」


 秋が叫ぶが、常には声が届いていないようで、目は虚ろになり、ぽろぽろと涙を流し始めたのが見えるのみだった。


 それもそのはずで、常の頭の中では、暁片の妖の焦った声が響いていたのだ。


「……暁片の始まりは王と臣下の結びつきの証だった。しかし、姬陶ジー・タオが王を暁片で殺し、民に名が知られるようになった。それから、暁片は厄災を招くことを望まれ続けた! 人々の望んだ負の感情が長い時を経て積み重なり、それが炎を引き起こしているのではないか! 嗚呼、こんなことが起きると分かっていたなら、私は暁片の力を貴様に貸すことはなかったのに!」


「どうすれば、僕はどうすればいい?」


 常は頭を掻きむしりながら、炎の中でうずくまった。涙は地面に落ちて、すぐに熱によって乾いてしまう。炎の勢いが更に強まっていく。


「落ち着け、常子远チャン・ズーユエン! ――雪花よ、力を貸せ」


 秋が静かに呟き、剣を構えるとまもなく吹雪が起こった。秋と棗愈ザオ・ユィーの周りには取り囲むように氷の柱が出現し、融けながらも赤い炎の勢いを弱めていく。


 雪が降ってきたのに気づいたのか、常が顔を上げた。暁片の妖が、常の頭の中で叫んだ。


「……姬陶ジー・タオの子孫――いや常子远チャン・ズーユエン、一つだけ策がある! それは、暁片を壊すことだ!」


「暁片を……壊す? 君は、暁片を探していたんじゃないの?」


「探していたのだが、こちらの剣のほうが居心地が良いからな。それでよいのだ。さあ、折れた剣を突き刺せ、さすれば私の力で壊そう。だが、これは危険な策だ。むやみに暁片を壊せば、暁片と一体化している貴様の身体は、高確率で暁片と共に消えるだろう」


「……消えるのは嫌だな、もっと僕は外を見たい」


 常は鄭蔚文チェン・ウェイウェンと外の世界について話をしたのを思い出した、はじめて常院楼の外に出た時に陽光が眩しかったことを思い出した。様々な人と出会い、交流したことを思い出した。自分の祖先の業を見たのを思い出した。十五年もの間、ずっと暗い世界の中にいたのだ、まだまだ見たい物がある。


「なあ常子远チャン・ズーユエンよ、貴様と私で賭けをしないか?」


 笑っている場合ではないのに、暁片の妖が楽しそうな声をしている。


「賭け?」


「そうだ、貴様が死んで消えるか、生き延びるかの賭けだ。このままでは、暁片の憎悪に灼かれて貴様は遠からず自ら死を選ぶだろう。憎悪を背負ったまま運良く生き延びたとしても、やはり”厄災を招く子”だったと言われて殺されるだろう。暁片を壊したならば、貴様は高確率で暁片と共に消えるだろう」


「それじゃあ、どの選択をしても僕は死ぬじゃないか」


「いいや、わずかな確率だが生き延びる道がある。当然だが、失敗すれば貴様は死んで跡形もなく消える。どうだ、賭けてみるか?」


 生き延びる道が何なのか、暁片の妖は教えてくれなかった。だが、他に選択肢がないのなら選ばざるを得ない。


「うん、分かった。賭けに乗るよ」


「良かろう! では常子远チャン・ズーユエンよ、暁片を身体から引き抜けるか?」


 常が頷いて、剣を取り出すために胸を手に置いた。前と同じように、更なる痛みと共に赤、青、黒、黄、白、様々な色が混ざり合うような視界となった。常の胸部から青銅の柄部分がゆっくりと姿を現す。しっかりと柄を両手で握る。深呼吸をして、目を閉じる。


「心配ないよ暁片、僕は一度見ているんだ」


 するりと胴体から引き抜かれしは、かの剣”暁片”。


 気づくと、ぼやけた輪郭の人物が傍らに立っており、しゃがみ込んで常の肩に手を置いた。姬陶ジー・タオのようにも帝寿ディ・ショウのようにも見えたが、瞬きをして視界がはっきりしてくると、それは秋一睿チウ・イールイだと分かった。


「……師兄?」


 秋は苦しんでいる常の姿に居てもたってもいられず、氷の柱を作りあげて棗愈ザオ・ユィーを守ると、自ら炎の中に飛び込んできたのだ。


 そして秋は炎の中に入って初めて理解した。確かに熱くはあるが、これは炎ではなく身を焼くことはない。だが、長い年月をかけて積み重なった人々の憎悪が、嘆きが、秋の心を灼けつくそうとする。この苦しみを常は一人で味わっていたのだ。


「師兄、手伝ってほしいんだ。この炎を止めるために、僕は暁片を壊す」


 秋は珍しく不安そうな顔で常を見つめたが、常のまっすぐな瞳に何かを感じたのか、しっかりと頷いた。


「ああ」


 常は、暁片の妖の住処となっている折れた剣を取り出して、暁片に突き刺そうとした。だが抵抗するように暁片の周りに風が巻き起こり、剣の先を暁片に近づけることができない。


 秋が常の持つ折れた剣に手を添えた。


常子远チャン・ズーユエン、共に壊そう」


「うん」


 二人は折れた剣を共に暁片に突き刺した。一際強い風が巻き起こり、暁片の妖の高笑いをする声が響く。


 徐々に暁片にひびが入り、やがて粉々に割れた。

 青銅が炎の色を映して輝き、雪が舞い、暁片のかけらも共に風に舞い上がる。

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