第29話 疑心の問いかけ
鬼が灰色の太い腕で、
「くそ、離れろ!」
すると、先程までの堅さは嘘のように、灰色の太い腕はあっさりと切り落とされた。落ちた腕は瞬く間に砂と化してゆく。
霊符は真っ二つになり、腕を無くした鬼にも痛みがあるのか、声とは呼びがたい奇怪な叫び声をあげた。
急に地面に落とされた
先程使用した霊符は
鬼除けの霊符を使えば、いつも通りに鬼が斬れる。それを知った
常は身体に力が入らず立ち上がれなかったが、意を決して、地面に冷から止められていた
友は今も自分を守って戦ってくれている。それを見て常は有り難いと思ったが、それと同時に、自分だけが守られている訳にはいかないと感じた。
戦ってくれている棗愈がいつまで持つか分からないし、もしも先程のような事があれば棗愈が常を必ず助けられる保証はない。ならば、自分の使えるだけの手を尽くさねばならない――そう考えたのだ。
常は目を閉じ、幽閉されている時に出会った彼の人の言ったことを思い出す。
心は凪ぎ、教えてもらった陣の文様がありありと瞼の裏に描き出される。
「左巻きに描けば敵を捕えたり衝撃を与えたり―― 」
教えてもらったときの言葉を口に出すと、常は再び目を開けた。地面に指で丸を描き、その中に左巻きの蛇を模した文様をすばやく描いていく。
「
幽鬼たちと戦っている棗愈を呼び寄せ、蛇の顔の向きに立たせないようにする。
常が蛇の目を描き終えると、まばゆい光が陣を彩り、あふれんばかりの閃光がその場を包み込んだ。
瞬く間に突風が起り、陣の近くに居た二人以外の者―― つまり鬼の全てが一斉に吹き飛んだ。
あまりの風に袖で顔を隠すようにしながらも棗愈が剣を構え、常は描いた本人であるのにもかかわらず、眩しいのと風が強いのとで目をつむっていた。鬼が吹き飛んだ以外は何も起らず、陣もほどなくして消えてしまった。吹き飛んだ鬼は竹に勢いよくぶつかり、砂と化して消えてしまった。
二人の眼前からは、すっかり妖鬼の類いは消えたのだった。
二人はその様子をしばらく眺めていたが、はっと気がつき目配せをした。常はすっかり身体に力が入るようになって立ち上がった。
しかしその矢先、地面に落ちている何かに躓いてしまった。見るとそれは青銅で出来た割れた香炉のような物だった。先程の陣の風で吹き飛んだのだろうか。
「ほら、こっちに手を回せ」
常が躓いてよろけてしまったので、見かねた棗愈が肩を貸した。
そして、どれだけ進んだのか分からないほど二人は必死になって霧の中を歩いていたが、竹林はいつの間にか松柏の青々とした葉が茂る林へと変わっていた。霧も晴れて、数里先も見渡せるほどになった。
妖鬼の類いが居なさそうなので、二人はようやく立ち止まった。
「今のお前の陣は何だ…… ? 丸に蛇のような文様…… 」
息を整えながら、棗愈は常に問いかけた。問いかけたが返答を待つ間に答えを思い当たったようで、
「もしや、さっきのは
といぶかしげに言った。
「多分そんな名前だったと思う。知っているの?」
それを常が聞くと棗愈は苦々しい顔をして、思慮を巡らせたのち言った。
「
棗愈によると、
「そんな…… ! お兄さんは親切心で教えてくれたんだ、私も使っているからって」
常の頭の中に、巴蛇の陣を教えてくれた人の姿が浮かんだ。どう考えても、いたずらっ子のように微笑むあの人が悪い人だとは思えなかった。
棗愈は常の素直さや無知さに呆れた様子で言った。
「そいつは親切なのではない、使うとお前が罪に問われる邪の術を教えた奴だ」
「でも…… !」
絶望の中にいた常に、暗闇から抜け出せる術を与えてくれた人だ。名前も年齢もどんな人なのかすらも知らないが、力の無い常にとって救いの手であったのは確かだった。
納得がいかない様子の常を見て、棗愈はため息をついた。
それから、急に真面目な顔つきに変わり、何か棗愈は考え事をするように黙ってしまった。
この辺りの妖鬼は討伐され尽くしたのか気配すらなく、松柏の林には風がひょうひょうと吹きすさぶばかりであった。時折獣の鳴声がするが、それは数里以上離れた所にいるようだ。
そのとき、急に太陽が雲に隠れ、辺りは暗くなった。ほどなくして、棗愈は常に一つ問いかけをしようと決心したのだった。
「なあ
棗愈の表情はいつもと同じだったが、声色は低く少し震えていた。
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