第29話 疑心の問いかけ

 鬼が灰色の太い腕で、常子远チャン・ズーユエンの首を締め上げている。息が吸えていないらしく、段々と常子远チャン・ズーユエンの顔色は青白くなっていく。


「くそ、離れろ!」

 棗愈ザオ・ユィーの剣”為天”で鬼の胴を突いたが、びくともしない。


 棗愈ザオ・ユィーは舌打ちをして、紙で作られた霊符を懐から出して、鬼の腕に向かって投げて貼った。そして、霊符ごと縦に剣を振り落とす。


 すると、先程までの堅さは嘘のように、灰色の太い腕はあっさりと切り落とされた。落ちた腕は瞬く間に砂と化してゆく。


 霊符は真っ二つになり、腕を無くした鬼にも痛みがあるのか、声とは呼びがたい奇怪な叫び声をあげた。


 急に地面に落とされた常子远チャン・ズーユエンは、倒れながら咳をして喉の辺りを手で確認し、その手に少しの血しかついていないことに一安心した。


 棗愈ザオ・ユィー常子远チャン・ズーユエンに駆け寄りたい心を押さえつつ、先程常の首を絞めた鬼の身体に剣を突き刺し、力を込めて鬼の胴を斬った。霊符のおかげで弱体化したため、容易に斬ることができたのだ。


 先程使用した霊符は儀仙堂ぎせんどう呪部じゅぶが作成している、鬼を寄せ付けないために家屋に貼るためのものだ。


 鬼除けの霊符を使えば、いつも通りに鬼が斬れる。それを知った棗愈ザオ・ユィーは不敵に笑い、残りの鬼を打ち払うことに専念した。


 常は身体に力が入らず立ち上がれなかったが、意を決して、地面に冷から止められていた巴蛇はだの陣を描くことにした。


 友は今も自分を守って戦ってくれている。それを見て常は有り難いと思ったが、それと同時に、自分だけが守られている訳にはいかないと感じた。


 戦ってくれている棗愈がいつまで持つか分からないし、もしも先程のような事があれば棗愈が常を必ず助けられる保証はない。ならば、自分の使えるだけの手を尽くさねばならない――そう考えたのだ。


 常は目を閉じ、幽閉されている時に出会った彼の人の言ったことを思い出す。


 心は凪ぎ、教えてもらった陣の文様がありありと瞼の裏に描き出される。


「左巻きに描けば敵を捕えたり衝撃を与えたり―― 」


 教えてもらったときの言葉を口に出すと、常は再び目を開けた。地面に指で丸を描き、その中に左巻きの蛇を模した文様をすばやく描いていく。


棗愈ザオ・ユィー、こっちへ来て!」

 幽鬼たちと戦っている棗愈を呼び寄せ、蛇の顔の向きに立たせないようにする。


 常が蛇の目を描き終えると、まばゆい光が陣を彩り、あふれんばかりの閃光がその場を包み込んだ。


 瞬く間に突風が起り、陣の近くに居た二人以外の者―― つまり鬼の全てが一斉に吹き飛んだ。


 あまりの風に袖で顔を隠すようにしながらも棗愈が剣を構え、常は描いた本人であるのにもかかわらず、眩しいのと風が強いのとで目をつむっていた。鬼が吹き飛んだ以外は何も起らず、陣もほどなくして消えてしまった。吹き飛んだ鬼は竹に勢いよくぶつかり、砂と化して消えてしまった。


 二人の眼前からは、すっかり妖鬼の類いは消えたのだった。


 二人はその様子をしばらく眺めていたが、はっと気がつき目配せをした。常はすっかり身体に力が入るようになって立ち上がった。


 しかしその矢先、地面に落ちている何かに躓いてしまった。見るとそれは青銅で出来た割れた香炉のような物だった。先程の陣の風で吹き飛んだのだろうか。


「ほら、こっちに手を回せ」


 常が躓いてよろけてしまったので、見かねた棗愈が肩を貸した。


 そして、どれだけ進んだのか分からないほど二人は必死になって霧の中を歩いていたが、竹林はいつの間にか松柏の青々とした葉が茂る林へと変わっていた。霧も晴れて、数里先も見渡せるほどになった。


 妖鬼の類いが居なさそうなので、二人はようやく立ち止まった。

「今のお前の陣は何だ…… ? 丸に蛇のような文様…… 」


 息を整えながら、棗愈は常に問いかけた。問いかけたが返答を待つ間に答えを思い当たったようで、

「もしや、さっきのは巴蛇はだの陣か…… ?」

 といぶかしげに言った。


「多分そんな名前だったと思う。知っているの?」


 それを常が聞くと棗愈は苦々しい顔をして、思慮を巡らせたのち言った。


巴蛇はだの陣は禁じられた術だ」


 棗愈によると、儀仙堂ぎせんどうをはじめとした呪部じゅぶを持つ勢力によって、扱う上で危険すぎる術は禁じられているのだという。


「そんな…… ! お兄さんは親切心で教えてくれたんだ、私も使っているからって」


 常の頭の中に、巴蛇の陣を教えてくれた人の姿が浮かんだ。どう考えても、いたずらっ子のように微笑むあの人が悪い人だとは思えなかった。


 棗愈は常の素直さや無知さに呆れた様子で言った。


「そいつは親切なのではない、使うとお前が罪に問われる邪の術を教えた奴だ」

「でも…… !」


 絶望の中にいた常に、暗闇から抜け出せる術を与えてくれた人だ。名前も年齢もどんな人なのかすらも知らないが、力の無い常にとって救いの手であったのは確かだった。


 納得がいかない様子の常を見て、棗愈はため息をついた。雪雲閣せつうんかくの門下生であるのに、禁術が何かすらも師匠や師兄に教えてもらっていないとはどういうことだ、とでも言いたげであった。


 それから、急に真面目な顔つきに変わり、何か棗愈は考え事をするように黙ってしまった。


 この辺りの妖鬼は討伐され尽くしたのか気配すらなく、松柏の林には風がひょうひょうと吹きすさぶばかりであった。時折獣の鳴声がするが、それは数里以上離れた所にいるようだ。


 そのとき、急に太陽が雲に隠れ、辺りは暗くなった。ほどなくして、棗愈は常に一つ問いかけをしようと決心したのだった。


「なあ常子远チャン・ズーユエン、お前は何者なんだ?」


 棗愈の表情はいつもと同じだったが、声色は低く少し震えていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る