第83話 辿り着く人

 「あれ、政主殿せいしゅどのは?」


 天弥道てんみどうの四合院に戻ってきた冷懿ラン・イーが、中庭で辺りを見回した。政主の顾奕グー・イーの姿が見当たらないのだ。


 「先程、明黄色の紙鳥を受け取った後、急いで出て行かれました……。建物周辺の妖鬼が全て倒されたのを確認した後、こちらはもう心配ないからとおっしゃって……」



 天弥道の政主は、自分が捜し回られているのを知らずに、辺り一面が白い世界の中を歩いていた。人の世とは思えないほど何も見えない場所であったが、ここがどこかと問われると天弥道である。もう少し細かく言えば、香炉から出た煙の中であった。顾奕グー・イーは人の姿を見つけて歩み寄り、呼びかけた。


白虎殿びゃっこどの。いや、季宗晨ジー・ゾンチェン殿どの。お久しぶりです」


 季宗晨ジー・ゾンチェンはほとんど地面に伏したように座っていて、顾奕グー・イーの足音を聞いて顔を上げた。頭上には、紫色の陣が先程よりも小さく展開されている。雷のような鋭い光が、顔を照らした。


「……なぜここに君がいる?」


 香炉から出た煙は人と人を分断し、見えない壁を作る。顾奕グー・イー季宗晨ジー・ゾンチェンと会えるはずがないのだ。


「ええ。数日ほど前にリウ殿どのと話をしたところ、なぜか香袋をいただきまして。着けてみたのです」

「あの人、余計なことを……」


 だが、香炉の香と同じ香りの香袋を付けた者は、香炉の煙で作られた壁をすり抜けられるらしい。だから顾奕グー・イーはただ一人、季宗晨ジー・ゾンチェンの側へと来ることができた。


「……季宗晨ジー・ゾンチェン殿どの。ここへ来たのは、貴方に謝るためです。十年前は、本当に申し訳なかった。私は幼く、貴方の足手まといになってしまった」


「謝るのは私のほうだよ。十年前、君の師匠を死なせた挙句、君の目と右手を使えなくさせてしまった。そして今回、私の復讐に天弥道を巻き込んでしまった。君は復讐などせずに、政主の地位を全うしているというのにね」


 季宗晨ジー・ゾンチェン顾奕グー・イーの右頬の縦に残る傷を見て、自嘲するように息を吐き、自らの髪を触った。


「今回、天弥道の門下生から死者は出ていません。貴方が仕掛けたのは、人を殺すほどの力はない妖鬼でした。それも、死体が動いている仕組みを知れば、容易に対処できるような。ですが、天弥道も私の力も未熟だと知らされました。……貴方は私に、天弥道に弱い部分があることを教えてくださったんですよね?」


「それは、私を善人だと思いすぎているね。弱点があれば、誰だって弱点を狙うだろう。それに私は、意味のない殺しはしたくなかった。それだけだ。……ほら、用事が終わったのなら無駄話をせずに去りなさい。私はもうすぐ死ぬのだから」


 季は髪を留めている紐を手に取り、解いた。波打ったような髪が、風になびいて広がる。


「いいや、まだ用事は終わっていません。季殿、死ぬ前に私と取引をしませんか?」


 憂いがある、とよく言われる微笑を浮かべて、グーは季と目線を合わせるようにして座り込んだ。だが、彼の心の中に憂いなどなく、あるのは政主としての覚悟だけだった。


「取引? 私の持つもので、価値のあるものはないと思うよ」


「いいえ、ありますよ。私は、貴方が作り出した術の詳細が欲しいのです。貴方の使うまじないは禁術であるとしても、まじないの体系として完成されている。禁術である理由を取り除くことができれば、利用価値は大いにあります。今の天弥道に足りないものは、呪部ですから」


 真面目で貪欲なグーの言葉を聞いて、季は力なく笑った。


「政主らしくなったね、顾奕グー・イー。もしかして、こちらが本当の用事かな? では、私に対価として何をくれるの?」


リウ殿どのの刑罰を軽くすること、です」


 季が目を見開いて、言葉を失ったようにグーの顔を見つめた。ご不満ですか、と顾が問いかけたが、答えはなかった。


「……君は、どこまで知っている?」


「私はほとんど何も知りませんよ。ただ、貴方にとって、取引するに値する条件だと知っているのみです。どうして貴方がリウ殿どのの刑罰を軽くしたいのか、罪状も何なのか、知りません」


 季は考えこむように、顎を触る仕草をした。


「……いいよ、取引に応じよう。泉古嶺洞せんこれいどうの政主の建物――静龍殿せいりゅうでんに竹簡の束が何冊かある。私が使えるまじないはそこに全て書き記してある。他の者に見つけられる前に見つけて、自由に使いなさい」


「心から感謝します、季宗晨ジー・ゾンチェン殿どの


 右手が使えない中、顾は片手で精一杯の拱手をして煙の外へ去っていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る