第76話 雪花の主

  常院楼の地下で、ひとしきり涙をこぼした季宗晨ジー・ゾンチェンは、ふいに立ち上がった。まるで彼にのみ聞こえる音が聞こえたようだった。


「そろそろ準備は整った頃かな。私たちも向かおうか」


 人の身長ほどの直径がある大きな陣を展開する。円の中には、狗のような文様が現れている。しばらく経たないうちに、陣全体が炎のように赤く光りだした。


「どこに行くの?」

「十年前の戦が起こった地、天弥道てんみどうだよ」


 常子远チャン・ズーユエンの手を引いて季宗晨ジー・ゾンチェンが陣に入ろうとしたその時、二人は足を止めた。


 手や顔に、何か小さくて冷たいものが降りてきたのだ。涼しかった地下は肌寒くなるほどの気温となり、吐く息は白くなった。


「これは、雪?」


 常子远チャン・ズーユエンは雪を一目見ようと土の天井を見上げたが、それらしきものは何も見えない。しかし、牢の中であるのに、確かに雪が降っているのだ。


「…………ああ、彼が来てしまったね」


 陣の放つ赤い光に照らされながら、季宗晨ジー・ゾンチェンが目を細めて笑った。急ぐような足音が二人に向かって近づいてくる。


「そこにいるのは……もしかして、常子远チャン・ズーユエンか! 無事か? どうして常院楼にいる?」


 秋一睿チウ・イールイが、牢の前で立ち止まった。前に、常が逃げるために巴蛇の陣を使って木枠を壊した牢だ。牢のあちこちに霜が降りて、土の壁には生き物のように霜が伝っている。


「……霊剣“雪花”の主、白虎の秋一睿チウ・イールイ


 季宗晨ジー・ゾンチェンが呟くようにして滑らかな声を発した。その声を聞き、切れ長の瞳が、まっすぐ常子远チャン・ズーユエン季宗晨ジー・ゾンチェンを見つめた。夜空のごとく、全てを見透かしてしまうほどに深い色をしている。だが、次に紡がれたその言葉は、今までになく不安げな声色だった。


「…………師父なのですか?」


 雪が降る。今度は二人の目に見えるほどの雪が、赤い光に照らされながら舞っている。そして小さく輝きながら、地面の上で融けていく。


「師父? お兄さんが?」


 季宗晨ジー・ゾンチェンの顔を見上げた常は、顔色こそ変わらないように見える。だが、つないだ手がわずかに震えている。


「…………」


 季は答えない。秋一睿チウ・イールイが代わりに答えた。


「そうだ。君の横にいる人は、私がずっと探していた師、季宗晨ジー・ゾンチェンだ」

「違う。私にはもう名などない」


 季が目を伏せた。


「お兄さん。お兄さんが昔居たのって、雪雲閣なの?」

「…………何もかも、捨てたのに。なんで今になって、私の目の前に現れる?」


 悲痛な声だった。いつものような得体の知れなさではなく、脆さや危うさを感じさせる。今手を離せば、すぐに崩れてしまいそうだと常は思った。


「師父。私はずっと貴方を探していたのです」


 秋はまっすぐに季を見つめた。その目の中の夜空が曇ることはない。


「そんな言葉などいらない……! 今更、止めようとしないでくれ……」


「私は、白虎という役職を守ってきた。師父よ、貴方こそが白虎にふさわしいのだと」


「違う、違うよ。一睿イールイ、私は…………沢山の人を殺してしまった。もう遅い。戻れないんだ」


 季の目から、ぽろぽろと涙が零れる。

 常は季を見つめながら、今まで聞いた話を思い出していた。常の目の前に度々現れる、禁術を使う滑らかな声をした名乗るべき名のない青年。その青年が語る、禁術を使ったことにより追われる身となり、襲ってきた門弟を殺してしまった話。秋による、破門となったが、とても強いもう一人の師匠がいた話。


「同じ人だったんだ……」


 考えこんでいる常の首筋に刃のようなものが当たる。一歩でも動けば、首を斬られる。常は今までに向けられたことのない静かな殺意を季から感じ取った。


「……お兄さん?」

「これはね、李紹成リ・シャオチァンの首を落とした窮奇の陣だよ。剣を扱えなくても、風の力で物を斬ることができる。もちろん、君の首も」


 気づかないうちに、常の頭上に小さな赤い色の陣が浮かんでいる。円の中には牛の文様がかたどられている。


「師父! なぜそのようなことをするのですか! あなたは人を脅すようなかたではなかったはずだ!」


一睿イールイ。人は変わるんだよ。剣を握ることすらもできなくなって、走ることもできなくなって、銀の糸は千切れた。私に残ったのは、禍々しい禁術のみだ」


 移動用の陣が大きく展開し、季は常の首元に窮奇の陣を向けつつ、その中に入る。


常子远チャン・ズーユエン! 師父!」


 秋は駆け、二人が入った陣に手を伸ばして滑り込んだ。

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