第47話 不安と掟

 蔵書殿を出て、三人は宿屋に向かった。宿屋に入ると、店主の疑うような視線が突き刺さったが、政主の名を出した途端優しいものになった。その視線に常子远チャン・ズーユエンは肌がひりついたような感覚を覚えていたが、店主の態度が軟化したため小さく息を吐いた。


 部屋は二部屋とったが、酒を携えて麻燕マー・イェン秋一睿チウ・イールイ常子远チャン・ズーユエンの部屋にずかずかと入ってきた。


「酒を飲むぞ!」


 どこから調達してきたのか、麻燕マー・イェンは両手いっぱいに四甕もの酒を持ってきた。秋一睿チウ・イールイ常子远チャン・ズーユエンしょうに席を敷いて座っている向かいに勢いよく座った。夕飯後うとうととしていた常子远チャン・ズーユエンは、目の前に豪快に酒甕がおかれたことで、大きく目を見開いた。


「酒を飲んでいるのはいつもだろう」


 秋一睿チウ・イールイがあきれた風に言うと、分かっていないねという風に麻燕マー・イェンが首を振った。


「それが、最近飲めていなかったんだよ! 師兄が殺されたり、師弟が殺されたりしてね! 毒を盛られた者も居るからって、酒は控えるようになんて言われちゃってさ」


 殺された、ということをさらりと言ってのける麻。それを聞いて、常は恐ろしく思った。麻は人の死に慣れている、と。


 一方の秋は、普段麻が酒を飲みすぎているから、この混乱に乗じて酒を飲ませないようにしているのでは、と思ったが言わなかった。


「今は飲んで大丈夫なのか? 刺客が居ないとも限らない」


 秋が聞くと、麻は歯を見せて笑った。


「ここで死んだら死んだ、だろう? まあ、うちの呪部じゅぶに“毒があったら鳴るれい”を持たされているんだけれど…… 。これ、不便なことに薬が近くにあっても鳴るんだよ」


 指の長さと同じくらいの大きさで、銅でできたれいは、ぜつがあるのに振っても全然音が鳴らない。常が一生懸命振って、その度に鈴のぜつをじっと見つめている。その様子を見て、麻が破顔した。


「おっ興味津々だね、子远ズーユエン


 四甕もの酒を見て、秋が言った。

麻燕マー・イェン。酒も薬や毒の一種と考えるのなら、れいが鳴ってもよさそうだが」


「それもそうだね! …… 呪部じゅぶが作ってるから細かいことはよく分からないや。今鳴らないってことは毒は入ってないってことでしょ。飲もう飲もう」


 どこから持ってきたのか、麻が酒器を出して酒を注ぎだす。すかさず、秋が常の前には漿しょうを置いた。


「おまえは酒はだめだ」

「えー、これあんまり好きじゃない」


 漿しょうはどろりとしていて、米が入っている飲み物だ。見た目は酒と似たようなものだから、自分が酒を飲んでも良いだろうにと常は思った。だが、何事にも厳しい秋がそれを許すはずはない。


 仕方なく、漿をちびちびと飲みはじめる。

 常が漿を飲み始めるのを確認してから、秋は酒器を手にして麻に問いかけた。


「それで、どうして泉古嶺洞せんこれいどうの門下生が殺されているんだ?」


「それが分からないんだよ。毒や針を使ってだまし討ちのように殺されていてね。それもそうで、殺された師兄と正面で戦っても勝てる者は、泉古嶺洞せんこれいどうで私しかいないんだ。だから私が殺したんじゃないかって疑われたんだけど、私なら正面から戦うよ。……それに」


 そこで麻は一呼吸置くように、翠玉のような瞳で秋を見つめた。秋も、麻をまっすぐ見つめ返す。


「青龍は絶対に人を殺してはいけない、そうだろう?」


 妖鬼を倒す役職の者は、生きている人間を絶対に殺してはいけない。ただでさえ人を殺したら大罪になるが、青龍・白虎・朱雀・玄武は特にその掟に縛られている。


 自分を殺そうと人が襲ってこようとも、敵と戦うことになろうとも、人を殺してはならないのだ。古くからある雪雲閣せつうんかく泉古嶺洞せんこれいどうはさらに厳格で、今まで一度も人を殺したことのない人間を白虎と青龍に選ぶ。


 その理由は、妖鬼をただでさえ多く討伐するのに人間を殺してしまったら、何かきっかけがあったとき、また人間を殺すようになる危険性があるからだ。その昔に黄龍であった者が決めたとされているが、この掟に欠陥があるのも事実である。


「ああ」

 最低限の返事だけを秋が返した。その短い返事に、数えきれない何かの重みが乗っている。


「何かが崩壊していくような、そんな言いようのない不安が泉古嶺洞うちを支配している。私は気楽でいたい人間だから、正直あそこに居るのもつらくてね。黄龍殿が私に頼みごとをしてくれて、帰るのはまだ先だ、って少しだけ安心したんだ」


 酒器に口をつけたが、何を思ったのか麻は飲むのをやめてしまった。酒器を弄び、傾けては水面に波を立てる。常はその様子をじっと見つめていた。こんなに静かに話す麻を初めて見たからだ。


「まったく。夜は暗いから、つい弱音を言ってしまうね。やめだやめ、人が死ぬとか殺されるとか、子どもの前で言うようなことじゃなかった! 楽しい話をしよう」


 麻は、まるで霧をかき消すように、手を大きく振った。


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