第64話 鄭家の話

 天弥道で戦が起こっていることはつゆ知らず、常子远チャン・ズーユエン玄郭げんかくの牢の中で閉じ込められながら、鄭蔚文チェン・ウェイウェンのことを考えていた。


鄭蔚文チェン・ウェイウェンの家が、玄郭にあるなんて……。玄武さんはチェン家を知ってるの?」


 見張りとして牢の前に立っている智墨辰ヂー・モーチェン常子远チャン・ズーユエンを振り返った。苦々しい顔をしながら、ほこの柄で地面を叩いている。

 

「お前、囚われの身のくせに僕に話しかけるなよ! ……知ってるけどさ。玄郭の者でチェン家を知らない者はいない」


 智墨辰ヂー・モーチェンチェン家について知っていることがありそうなので、常子远チャン・ズーユエンが目を輝かせた。


「ねえ、鄭蔚文チェン・ウェイウェンはどんな人だった?」


 大きなため息をついて、智墨辰ヂー・モーチェンが矛を地面に突きながら常子远チャン・ズーユエンに顔を近づけた。


「お前、本当に懲りないな! もういい、お前と話すのは政主様のためだからな。決してお前のためじゃない。……鄭蔚文チェン・ウェイウェンは数回顔を見た程度だ。よくは知らないが、チェンの家を継ぐのは長男ではなく次男だという噂があった」


「そうなの?」


「ああ。だが、鄭蔚文チェン・ウェイウェンといえば、その噂が流れた後すぐに罪に問われたはずだ。なんでそんな罪人のことを気にかける必要があるんだ?」


 智が腕を組んで常を見つめると、常は”罪人”という言葉に反応して思わず立ちあがった。


「あの人は罪人じゃない! ……罪を着せられたって言ってた」


「は? どういうことだ? そんなのそいつがいた嘘かもしれないだろ。それに、鄭蔚文チェン・ウェイウェンは有名なチェン家の次男だ。そんな大きな家の者に罪を着せるなんて馬鹿げたことがまかり通るのか? いや、チェン家の内部の人間ならば可能だ、それに罪を着せる理由も存在するのか……」


 常は智の言葉に対して、何も返すことはできなかった。玄武の職に就いているだけあって幼いながらも聡明らしく、独り言のように思考を口に出しながらチェン家について考え始めたからだ。


「……それで、なんでお前は、鄭蔚文チェン・ウェイウェンのことを知りたいんだよ? いくら恩人でも、そこまで知りたいと思わないだろ」


 しばらく経って一通り考え終えたのだろうか、智が常に質問した。


鄭蔚文チェン・ウェイウェンはね、僕のせいで死んだんだ。僕のいた牢を見張っていたけど、ただ一人僕に手を差し伸べてくれて、言葉を教えてくれて、話し相手になってくれて、それを李紹成リ・シャオチァンに知られて殺された」


「……へぇ」


「あのときみたいに、僕は後悔したくないんだ。だから知りたい。彼のことも、自分の事も」


 智はしばらく黙っていた。大きなため息をついて、頭を掻いた。銅燈の火もゆらりと揺れている。


「政主様が物事をいろいろな目線で見なさいとおっしゃるのは、この為か」


「え? どういうこと?」

「なんでもない。僕の独り言だ」


「……?」


 常は納得出来ていない顔をしていたが、それに対して、智は何かに納得して晴れ晴れとした表情をしている。


「お前のことはなんとなく理解した。だが、玄郭ぼくらはお前を利用しようとしている。その折れた剣を使って逃げる、なんて妙な気は起こすなよ」


 妖の取り憑いた折れた剣は、何にも使えないだろうということで没収されることはなかった。暁片に住んでいた妖だと知れたら没収されるだろうが、一目見るだけでは使い物にならない剣にしか見えない。それに、剣を使って逃げようという気持ちが常子远チャン・ズーユエンにはなかった。


「分かってる。これ以上、師兄や雪雲閣せつうんかく、黄龍さんたちにも迷惑はかけられないもんね」


「……」


 智は常の言葉を聞いて、急に浮かない顔をした。


「玄武さん、どうしたの?」


「僕がもっと強ければ、政主様にこんな卑怯なことをさせなくて済むのにな」


 いくら政主の決めたことだとはいえ、智は玄郭の行っていることに後ろめたさはあるらしい。大きな翠玉の如き目を伏せて、表情は憂いを帯びている。


「優しいんだね、玄武さんは」

「は? うるせえんだけど! お前、やっぱ黙ってろよ……」


 智が暗闇でも分かるくらい顔を赤くして、常を指さした。表情がころころと変わるため、見ていて飽きない人だと常は思ったのだった。


 だが、何かの気配を感じ取ったのか、すぐに智は顔色を変えて険しい表情になった。


「……誰かが来る。合図がないのに来るのは変だ。お前、気をつけ――――」


 智が辺りを警戒するようにそう言って、振り向きざまにふらりと倒れた。手にしている槍が音を立てて落ちる。


「玄武さん!? どうしたの?」


 急に闇に溶けるようにして銅燈の火が消える。辺りは暗くなり、暗闇に慣れた常であっても何も見えない。


「…………吸うな、これは……ねむらせるための、どく、だ」


 暗がりの中、かろうじてその言葉だけを発し、智は目をつむった。


「玄武さん!」


 常は叫んだが、毒という言葉を思い出し、すぐに牢の木枠から後ずさり、袖で口を覆った。


 そして、壁ではない何かにぶつかった。


「偉いね、ちゃんと毒を警戒できるのは」


 常の後ろから声がする。聞き覚えのある、滑らかな声だ。常がぶつかったのは人であるらしい。


 常の左腕が引っ張られて、身体が”何か”に引き込まれる。引き込まれる中で振り返って見えたのは、赤黒く光る丸い陣だ。人の身長ほどもあり、円の中に狗のような文様が現れている。


 常の身体はすうっと陣を抜けて、また暗い闇の中に転がり出た。転がった勢いを生かして起き上がると、暗い中でもわかるような赤い目の青年が立っていた。


「……お兄さん」


 赤い目の青年――季宗晨ジー・ゾンチェンが目を細めた。


「やあ。会うのは三度目だね」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る