第33話 狡い取引
外は丸く銀色に輝く月が出ていた。このような月夜であれば酒も進むだろうと冷は嬉しくなったが、相手は黄龍の棗であるから油断は禁物であると思い直す。
「それで、頼みたいこととは何です?」
重要なことならば酒を飲む前に聞いておきたいと思い、冷は器の水面を見つめていた顔を上げて聞いた。
「流石、
棗の目が猫のように細められる。
「お前に頼みたいことであるが、
「なぜ頼み事をするのが私であるのか理解しました。
冷がそう言うと棗はわざとらしくため息をついて、酒に少し口を付けた。
「同盟について頼めそうな者が他に居ないからな」
「それならば直接
「儀仙堂は中立であるから、一対一での同盟を結ぶことは出来ない。それに、朱雀には昔話ばかりするなと言われる。鬱陶しがられているのだ」
天弥道朱雀の
「そうですか…… 。では、天弥道と同盟を結ぶ理由を聞いても? 現在、儀仙堂をはじめとした五つの勢力はすでに同盟を結んでいます。そう何重に結ばなくても良いのでは」
今も五つの勢力による同盟は効力を有している。棗は何を恐れているのか、と冷は思う。
「…………暁片と聞いて、十年前の戦を思い出したのだよ。天弥道がまだ小さな門派であったころ、天弥道が暁片を持っていると噂になり、他の門派の襲撃を受けたことを。あの戦では天弥道の政主、
雪雲閣の破門された
それに、最近数年のうちに
棗は薄く濁った酒を見つめた後、一口でそれを飲み干した。まるで不安も共に飲み干してしまうかのように。冷は静かにその様子を眺めていたが、悩みながらも一つ問いかけた。
「…… もしも、私がその同盟を崩す側だったらどうするんです?」
冷は少し試してみたくなったのだ。儀仙堂の政主が何を見て、何を考えているのか、を。
「どうもしないよ、君は君の役割を果たせばよいのだから」
「何もしないのですか?」
「起こってしまうものは仕方ないだろう。それに…… 」
棗は人差し指を立てた。
「君は崩す側じゃないと私は推測しているからだ。十年前の戦には年齢的に関わることができない。できたとしても、お前ならもっと上手いやり口で完遂できる。それに、雪雲閣に深い恩のあるお前が同盟を崩そうとするだろうか? よって、同盟を崩す側ではないと結論づけた。だからお前に頼み事をしたのだよ。…… なあ
目を潤ませて冷を見る棗。夕日色をした
「いえ、そういう訳ではないのですが、
それに、天弥道は冷にとって世話になった人々が雪雲閣の次に多い門である。剣術を重んじる門派であるからか、今まで呪術や法宝などにはほとんど興味が無いといった風に関わってこなかった。その証拠に、他の門派ではあり得ないことであるが、
そのような天弥道を暁片や邪術が関わる物事に引き込んでもよいのだろうか? 冷が一人で考えても、答えは出せない。
冷が逡巡を止めて頭を上げると、形の良い唇がつり上がったのが見えた。
「ならば、こうしよう。お前の出生について知っている事がある。天弥道との同盟を行ってくれたら教えよう。よく考えよ」
それは、親が健在である人間にとってはどうでも良い事かもしれないが、冷にとっては知りたいと思うような事柄であった。
その理由は明確で、冷の両親が誰なのか分からないからである。物心ついた時から冷は雪雲閣の門下生として生きてきた。
そういう訳で、もう自分の生い立ちを知る術がないと随分前から冷は諦めていたわけであるが、今、このように棗が交渉の一つとして提示したというわけであった。
本当に
この話に勝ち負けがあるとしたら、負けは冷のほうであった。求めている薬草を採るために崖を渡るには、棗の作った橋を渡る他ないのだから。
「わかりました。返答は後ほど行います」
その後、冷は数甕ほど飲んだが、折角の酒の味を心から味わうことが出来なかった。酒を飲んでから頼み事を聞いた方がよかったか、と冷は少し後悔した。
もしも師兄の
冷はまたもやため息をついて、酒を飲むのもほどほどにして居龍殿を後にした。
あれほど綺麗だった月夜も龍の鱗のような雲で翳り、夢であったのかと思うほどである。
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