第33話 狡い取引

 常子远チャン・ズーユエン静饗殿せいきょうでんに送り届けた後、冷懿ラン・イーが居龍殿へと戻ると棗绍ザオ・シャオが酒を用意して待っていた。しょうに腰掛ける姿は相変わらず優美であった。棗に促されて、冷も牀に腰掛ける。


 外は丸く銀色に輝く月が出ていた。このような月夜であれば酒も進むだろうと冷は嬉しくなったが、相手は黄龍の棗であるから油断は禁物であると思い直す。


 儀仙堂ぎせんどうの酒は昨日秋と味わったように、香り高く質の良いものである。注がれた酒の濁りは白く、酒器の底に彫られている水をかたどった文様がうっすらと見える。


「それで、頼みたいこととは何です?」

 重要なことならば酒を飲む前に聞いておきたいと思い、冷は器の水面を見つめていた顔を上げて聞いた。


「流石、冷懿ラン・イーだ。話が早いな」

 棗の目が猫のように細められる。


「お前に頼みたいことであるが、雪雲閣せつうんかく天弥道てんみどうと極秘の同盟関係を結んで欲しい。それだけだ」


「なぜ頼み事をするのが私であるのか理解しました。天弥道てんみどうで一年学んだことのある私ならば、頼み事もしやすい。そういう事でしょう?」


 冷がそう言うと棗はわざとらしくため息をついて、酒に少し口を付けた。

「同盟について頼めそうな者が他に居ないからな」


「それならば直接天弥道てんみどうに言えば良いではないですか、朱雀殿すざくどのと仲が良いでしょうに」


「儀仙堂は中立であるから、一対一での同盟を結ぶことは出来ない。それに、朱雀には昔話ばかりするなと言われる。鬱陶しがられているのだ」


 天弥道朱雀の南祯ナン・ヂェンにそう思われているという自覚が棗にあるというのが冷には驚きだった。


 南祯ナン・ヂェンは棗と高い頻度で酒を飲む。だが、南祯ナン・ヂェンは、口では棗に対して厳しいことばかり言っている。それをのらりくらりと棗が躱し、南祯ナン・ヂェンの少年時代を聞いてもいないのに語り出す、のがいつものことだ。鬱陶しがられていると分かっているのに絡み酒をしているだけ、なおさらは悪いが。


「そうですか…… 。では、天弥道と同盟を結ぶ理由を聞いても? 現在、儀仙堂をはじめとした五つの勢力はすでに同盟を結んでいます。そう何重に結ばなくても良いのでは」


 今も五つの勢力による同盟は効力を有している。棗は何を恐れているのか、と冷は思う。


「…………暁片と聞いて、十年前の戦を思い出したのだよ。天弥道がまだ小さな門派であったころ、天弥道が暁片を持っていると噂になり、他の門派の襲撃を受けたことを。あの戦では天弥道の政主、顾奕グー・イーが剣を握れなくなった。


 雪雲閣の破門された季宗晨ジー・ゾンチェンも、その戦で深い傷を負って邪道の術を使うようになっただろう。私は、そこに誰かの思惑があったと思うのだよ。 

 

 それに、最近数年のうちに泉古嶺洞せんこれいどうの有力な者たちが何人も誅殺されている。”厄災を招く子”も十五年ぶりに見つかり、厄災が訪れるという予言を呪部じゅぶが告げた。我々の同盟が少しずつ崩れてきているのではないかと不安であるのだ」


 棗は薄く濁った酒を見つめた後、一口でそれを飲み干した。まるで不安も共に飲み干してしまうかのように。冷は静かにその様子を眺めていたが、悩みながらも一つ問いかけた。


「…… もしも、私がその同盟を崩す側だったらどうするんです?」


 冷は少し試してみたくなったのだ。儀仙堂の政主が何を見て、何を考えているのか、を。 


「どうもしないよ、君は君の役割を果たせばよいのだから」

「何もしないのですか?」

「起こってしまうものは仕方ないだろう。それに…… 」


 棗は人差し指を立てた。


「君は崩す側じゃないと私は推測しているからだ。十年前の戦には年齢的に関わることができない。できたとしても、お前ならもっと上手いやり口で完遂できる。それに、雪雲閣に深い恩のあるお前が同盟を崩そうとするだろうか? よって、同盟を崩す側ではないと結論づけた。だからお前に頼み事をしたのだよ。…… なあ冷懿ラン・イー、そんなに私の頼み事を引き受けたくないのか?」


 目を潤ませて冷を見る棗。夕日色をした瑪瑙めのうの瞳は、何もかも全てお見通しで頼み事をしているのだった。試そうなどと思うと、試されているのは試した側である。ため息がつい冷の口から出てしまう。


「いえ、そういう訳ではないのですが、雪雲閣せつうんかくとして考えるお時間を頂きたく……」


 天弥道てんみどうと極秘の同盟関係を結ぶということは、他の勢力との同盟関係を軽視したと見ることもできる。これが他の勢力に知れるとどうなるかは考えたくなかった。外交の役割を主として担っている冷であるが、このように重要な事柄は政主に意見を仰ぐべきだと思うのだった。


 それに、天弥道は冷にとって世話になった人々が雪雲閣の次に多い門である。剣術を重んじる門派であるからか、今まで呪術や法宝などにはほとんど興味が無いといった風に関わってこなかった。その証拠に、他の門派ではあり得ないことであるが、呪部じゅぶを置いていない。


 そのような天弥道を暁片や邪術が関わる物事に引き込んでもよいのだろうか? 冷が一人で考えても、答えは出せない。


 冷が逡巡を止めて頭を上げると、形の良い唇がつり上がったのが見えた。


「ならば、こうしよう。お前の出生について知っている事がある。天弥道との同盟を行ってくれたら教えよう。よく考えよ」


 それは、親が健在である人間にとってはどうでも良い事かもしれないが、冷にとっては知りたいと思うような事柄であった。


 その理由は明確で、冷の両親が誰なのか分からないからである。物心ついた時から冷は雪雲閣の門下生として生きてきた。冷懿ラン・イーという名前も、誰が名づけてくれたのかも分からない。師匠である雪雲閣政主、沙渙シャー・フアンですら冷の生い立ちについてはよく知らないという。


 そういう訳で、もう自分の生い立ちを知る術がないと随分前から冷は諦めていたわけであるが、今、このように棗が交渉の一つとして提示したというわけであった。


 本当に棗绍ザオ・シャオは狡い人間だ、と冷は再確認した。雪雲閣で決めるべき事柄であるのに、冷個人と取引をしようとする。冷はこの機会を逃せば知りたい情報を永遠に得られないかもしれないのだ。天弥道との同盟に賛成する立場になるほかないのである。


 この話に勝ち負けがあるとしたら、負けは冷のほうであった。求めている薬草を採るために崖を渡るには、棗の作った橋を渡る他ないのだから。


「わかりました。返答は後ほど行います」


 その後、冷は数甕ほど飲んだが、折角の酒の味を心から味わうことが出来なかった。酒を飲んでから頼み事を聞いた方がよかったか、と冷は少し後悔した。


 もしも師兄の秋一睿チウ・イールイならばこの話をきっぱりと断るのだろう、と冷は酒をあおりながら思った。しかし、冷は秋一睿チウ・イールイのようにまっすぐに自分の意思を貫き通せる自信は無かった。


 冷はまたもやため息をついて、酒を飲むのもほどほどにして居龍殿を後にした。


 あれほど綺麗だった月夜も龍の鱗のような雲で翳り、夢であったのかと思うほどである。静饗殿せいきょうでんへ戻る冷の足取りは重かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る