第61話 雪山の仙女

 常子远チャン・ズーユエンが囚われている間、冷懿ラン・イーは嵐の前の静けさのような不安を抱えながらも、自分自身について調べるために大麓岵ダールゥフへと向かった。


 政主の沙渙シャー・フアンが玄郭政主の于涵ユィー・ハンと一対一で交渉を行うため、冷懿ラン・イーは交渉の場に出なくても良いと言われたのだ。


 大麓岵ダールゥフは雪雲閣よりも更に北にある山であり、岩がそびえて立ちならび、強い風が吹くことで有名だ。植物すらも生えないのではないかと思われる険しい土地には、夏であるというのに脛ほどの高さまで雪が降り積もっている。


 冷は雪雲閣がある参山シェンシャンを登るのには慣れていたのだが、大麓岵ダールゥフは一層険しく、体力のある冷でも息が上がってしまうほどだ。吐く息は白く、手の先はかじかんで赤くなっている。

 

 冷が大麓岵ダールゥフに向かうのを聞いて、沙渙シャー・フアンが鳥の毛を織り込んだ外套を贈ってくれたのが、せめてもの救いだった。寒さに強いため、冷はいつもの格好でも問題ないだろうと思っていたが、大麓岵ダールゥフに入ると政主が正しいのだと実感した。夏であるとはいえ、大麓岵は雪雲閣以上に寒い。


「この付近ですかね…… 」


 明黄色の紙鳥が冷の袖から飛び出して、翼を動かしてばさばさと音を立てた。どうやら、棗绍ザオ・シャオに言われた、手がかりがある場所に着いたようだ。


 だが、周りを見渡しても一面の雪景色で、何もない。唯一気になるのは、崖のようにそびえる岩山の中でも、ここだけは平坦で開けた場所のようだった。


「なにか、ここに…… 」


 冷は空に向かって手を伸ばした。一見すると雪の積もった開けた場所であるが、よく見てみると、少し景色が歪んでいるようだったのだ。


 すると、何もない所であるはずなのに”誰か”に手を引かれる感覚がして、引っ張られるようにして五歩ほど前に歩いた。


「うわっ」


 冷の身体が前につんのめり、顔を上げるとそこには美しい銀の髪を持った、仙女のような人間が立っていた。頭には何個も簪をつけており、玉のような白に近い色の深衣を身につけている。


冷懿ラン・イーだな」


 溶けかけの氷のような白青はくせい色の瞳を細めて、その人が冷を見つめていた。女性にしては低めで、響くような声をしている。


「…… あなたは?」


冷冰ラン・ビン。冷たい氷と書く。安直な名だろう?」


「は、はあ」


 冷懿ラン・イーは曖昧な返事をした。安直だ、と自ら言われるとどう返せば良いか分からなかったのだ。だが、目の前の人間に似合っている名だと思った。


「私から話を聞きたいのだろう? 入りなさい」


 冷冰ラン・ビンが手で示した先には、小さな建物が二つ並んでいた。冷懿ラン・イーは言われるままに、歩き出した冷冰ラン・ビンに着いていく。


「この場所が気になるか? こちらは住居で、あちらは医術を施す場所としている」


  医術、と聞いて思い当たる話があった。神のごとき腕を持つ医家があるが、どこにいるのかは一切不明である、と。


「前に、神医がいるとの噂を聞いたことがあります。もしかして、あなたですか?」


「それはどうか分からない。最近は、ほとんど人を診てはいないからな」


 建物の中に入ると、質素である割には物が多く、飾らない雰囲気であった。つくえしょうなどの調度品が所狭しと置かれている。


「それで、何を聞きたい?」


 物が雑多に置かれたながいすに腰かけた冷冰ラン・ビンが問いかけた。


「私や私の先祖について、何か知りませんか?」


「ほとんど知らないな。だが、冷懿ラン・イーという名は、私が付けた」


 冷冰ラン・ビンつくえの上に置いてあった酒を注ぎ、一気に飲み干した。


「そうなのですか?」


「お前が一、二歳の頃、この近くで泣き喚いていた。周りには、お前の両親と思われる遺体があるのみ。大方獣にでも殺されたのだろう。どこかへ移り住む途中だったのか、各地を放浪する商人だったのか、器をたくさん持っていた。それ以上の詳しい情報は分からない、だから適当な名を付けた」


 そう言ってながいすに置いてあった器を冷懿ラン・イーに渡した。ほとんどの器は割れていたというが、これだけが無事だったという。


「あなたが助けてくださったのですか?」


 冷懿ラン・イーが問いかけると、冷冰ラン・ビンは首を振った。


「助けたわけじゃない。お前が着いてきただけだ。一年ほど経った頃か、私の家にずっと置いておくわけにもいかないのでな、胡劭フー・シャオに預けた。それ以降は、君が知るとおり胡劭フー・シャオの口利きで雪雲閣の門下となった」


 冷懿ラン・イーは渡された器を手にして見ていたが、聞き慣れない名前を聞いて顔を上げた。


胡劭フー・シャオ?」


「ああ、今は違うか。棗紹ザオ・シャオ、黄龍のことさ」


 冷懿ラン・イーは、ここで冷冰ラン・ビンの口から謎多き人物の名前を聞くとは思わなかった。だがすぐに、この場所は棗から聞いたのだから名前が出るのにも納得した。


「…… 名前が違う?」


「あいつにはいろいろと事情がある。そうだ、お前は棗紹ザオ・シャオに聞いてやってきたのだろう? あいつは交換条件として頼み事をしてこなかったか? どうせ面倒事だから断っておけよ」


「断れませんでした…… 」


 しょぼくれた冷懿ラン・イーを見て、冷冰ラン・ビンは呆れたようにため息を吐いた。


「どんなことを頼まれた?」


「謎の香炉の出どころを探れだったり…… 雪雲閣と天弥道で更なる同盟を結べだとか…… 常院楼に“厄災を招く子”が幽閉されている可能性があるので交易を結ぶついでに探れと命じられたり…… 」


 冷冰ラン・ビンが口の端を吊り上げた。


「頼まれすぎているな。あまり困らせるなと今度会った時に言っておこうか?」


「お願いします…… 」


 冷冰ラン・ビン冷懿ラン・イーの持っている器に酒を注いで、自身の酒器にも酒を注いだ。


「……ありがとうございます。今までずっと、自分の居場所について考えていました。親が分からないため、子どものころは様々なことを言われたのです。人に認められるために、誰よりも努力してきました。そんなことをしなくても認めてくれる人はいるけれど、今このように自分の目で確かめて、やっと心から自分がここにいていいのだと思えた気がします」


 その言葉は、冷冰ラン・ビンに言っているようで独り言のようでもあった。そう言った後、冷懿ラン・イーはただ酒を飲まずに器を見つめている。


「そんなに気にしていたのなら、棗紹あいつももっと早くに教えればよいものを……」


 冷冰ラン・ビンは目を細めて冷懿ラン・イーの姿を見つめた。冷懿ラン・イーと最後に会ったのは十数年以上も前で、冷冰ラン・ビンとしても感慨深いのだった。


「それで、これからどうするんだ? 玄郭げんかくに捕らわれた常子远チャン・ズーユエンを助けるか? それとも師兄の秋一睿チウ・イールイに着いていくか?」


「私は常子远チャン・ズーユエンの名を言っていないはず…… 。あなたは一体どこまでご存じなのですか?」


 酒を飲み干して、冷冰ラン・ビンが笑った。


「さあな。これは老人としての助言だが、行くなら玄郭ではなく天弥道てんみどうに行け。近いうちに、常子远チャン・ズーユエン周りで動きがあるだろう」

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