第7話 巴蛇の陣


 鄭蔚文チェン・ウェイウェンが死んでからというものの、少年はすっかり生きる気力を失っていた。


 ほとんどの時間、少年はぐったりと身体を横たえていた。ときどき身体を起こしたとしても、すぐに力なく倒れてしまう。


 鄭蔚文チェン・ウェイウェンの残骸はとうにどこかへ片付けられ、乾いた血だまりだけが残った。少年は頭を打ち付けて死のうと思ったが、力がなく死ぬことさえもできなかった。今まであんなに餓えていたのに、食べる気すらも湧かない。


 鄭蔚文チェン・ウェイウェンと話すようになる前に戻っただけなのに、と少年はため息をつく。ずっと暗い色の世界しか知らないのに、世界はすっかり色を無くしてしまったようだ。



 その日は珍しく、部屋の外で知らない人間の声がした。


「今まで気がつかなかった。ここは何の部屋なんだい? 見たところ、ここ自体が圜土えんどのようだが」


 好奇心旺盛そうだが、どこか落ち着いた声だ。少年にも老人にも聞こえるようで、つかみどころがない。足音は歪で、足に怪我をしているようだった。


 少年は人間のいる方向――布の向こうを生気の無い目で見つめた。


「ここは、”厄災を招く子”の部屋であります」


 鄭蔚文チェン・ウェイウェンの代わりに新しく補充されたらしい見張りが、緊張したような声色で答えた。


「へえ……」

 無関心なのか、感心しているのか分からない声だ。


 少年は恐る恐る布の隙間から声の主を覗いた。息を殺して、決して気づかれないように観察する。


 波打ったような髪を頭の高い位置で束ね、つり目の丸い瞳をした青年が見える。瞳の色は、闇の中の血の色と同じだ。それこそ、その青年の足元にある鄭蔚文の乾いた血のような。そして青年の身体は、何度も布を体に巻きつける曲裾袍きょくきょほうを着ているにもかかわらず、巻かれた帯により腰は細く痩せていると分かる。


 その青年がふと布の隙間から少年の居る所を見たため、目が合ってしまった。


 少年は息を呑んだ。決して気づかれないように息を殺していたのに、見つかってしまった。この人に殺されてしまうかもしれない、何をされるか分からない。脳裏に、鄭蔚文チェン・ウェイウェンがされたようなむごい光景が思い出される。


 少年の心配をよそに、闇に溶けるような滑らかな声が、歌うように投げかけられた。血のような色をした目が細められる。


「おや、可愛らしい子ではないか」


 青年は見張りに対して休むように命令し、少年の居る場所の前に座り込んだ。見張りに命令できるところを見ると、それなりの地位にある者らしかった。


「君はずっとここに居るのかい?」


「……うん」


 言葉を交わすべきかどうかためらった後に少年が答えると、青年は何度も頷いた。


「そうかそうか。……君のような子どもがこんなに暗く狭いところで閉じ込められているなんて。君をここから出してやりたいが、私の力ではできなさそうだ。怒られてしまうからね。さて、どうしたものだろう」


「……いい。僕は死にたいんだ」


 少年はぽつりと言葉をこぼした。もうすでに、自分のことなんてどうでも良くなってしまったのだ。暗い目をしている少年に対して、青年がきらきらと目を輝かせた。


「へえ、そうなのかい? でも、君は現に生きているじゃないか。どうせいつかは死ぬのなら、外の世界を見てから死にたいと思わないか?」


「それは、そうだけど……」


 青年は長いこと考えこむ仕草をしていたが、何かをひらめいたように表情を明るくした。


「そうだ、出たいのならば、君が自分でここを出ればいい。……君にこの陣を教えよう。力が無くても、修行をしていなくても使うことができるんだ」


 いたずらっ子のような微笑みをして、青年が丸を描いた。そして、その中に蛇のような文様を描いていく。


「これは巴蛇はだの陣と言って、右巻きに描けば自分を守る陣となり、左巻きに描けば敵を捕えたり衝撃を与えたりできる。つまり左巻きに描けば、この木枠は壊れるだろう。ああ、蛇の顔の向いている方向には立たないようにね。距離は三丈、陣円の約半周の範囲に対して衝撃を与えるから、蛇の顔の方向に立つと自分も巻き込まれてしまうんだ、気を付けて」


 そう言って青年は右巻きの蛇を描き終え、手を左から右にかざす。すると、白い光が陣から発せられ、しばらくすると光は消え元の文様に戻ってしまった。手をかざすと、衝撃を与える陣にはならず、文様のままになるらしい。


「ありがとうお兄さん……名前はなんと言うの?」


「私にはもうすでに名乗るべき名はないんだ」


 青年は悲しそうに目を細めた。何か事情があるらしい。木枠を伝うようにして、青年は立ち上がる。


「そろそろ行くよ。君がここから出たければその陣を描いてごらん。運が良ければだが、君は自由の身になるだろう」

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