第88話 百五十年の時

 四年前、本永十八年。常子远チャン・ズーユエン秋一睿チウ・イールイの目の前から消えてから、数秒の後。


「起きろ、常子远チャン・ズーユエン


 常子远チャン・ズーユエンは誰かに呼びかけられた。少年とも少女ともつかない声に聞き覚えがあった。暁片の妖だ。


 目を開けると、見渡す限り白くて何もない空間の中に、朱色の神殿がそびえ立っていた。前に来たときは建物の大部分が崩れかけてあちこちに草木が生えていたが、今は新築のように美しい見た目になっている。豪華絢爛で巧みに作られた建物の荘厳さが伝わってくる。


「ここって、暁片の中? 僕はどうなったの?」


「貴様と秋一睿チウ・イールイは暴走した暁片を壊したが、貴様は暁片との結びつきが強すぎたため、存在も共に消えかけた。……そこまでは知っているだろう?」


 常はその言葉に頷いた。


「そして先程、貴様との賭けをした。その賭けの内容というのが、新しい住処折れた剣の中にお前の身体を移すことだった。今まで一度も行ったことはなかったが、結果は成功。私たちは賭けに勝ったのだ! しかし今の貴様は、不完全な状態で剣の中で眠るしかないのだけれどな」


 手指を握ったり開いたりしてみても、常に違和感はない。たとえ剣の中であっても、体は自由に動かせているのだ。本当に”不完全な状態”なのだろうか? と不思議に思うほどだ。


「僕は本当に剣の中で眠っているの? ここからどうすれば出られる?」


「それが……貴様の身体は消えかかって間もない。しばらく剣の中から出られないだろう。自分では分からないと思うが、今は命が危険な状態にあると思ってくれ」


 暁片の妖は珍しく真面目な声になり、そのまま話を続ける。


「……暁片は元々、災いを防ぐことを願って作られた剣だ。負の感情が蓄積されていたとはいえ、牢にいた十五年間の間、暁片は宿主貴様が死なないように守っていたのだろう。そうでなければ、劣悪な環境で子どもが生き延びられるわけがない。貴様のことを守っていた暁片を壊してしまったのだ。貴様の中から欠けてしまった暁片を新しい剣により再構築せねばならない。外に出られるのは再構築が終わってからだな」


 姬陶ジー・タオも燃えている建物の中で生き延びた。王の死後に姬陶ジー・タオが死のうとしても、死ぬことができないほどの強いまじないが施されていた。彼の子孫である常もまた、暁片に守られていたのだ。


「暁片が守ってくれていた……そうだよね。決して悪いことだけじゃなかった。――ねえ、再構築ってどれくらいの時間がかかる?」


「剣の中の時間だと、約百五十年かかる。外の時間で換算すると、三年から五年ほどだろうか。あちらこちらにおいて、時間の流れは大いに違っている。これでも、前よりは差がなくなったほうだ」


百五十年ひゃくごじゅうねん……」


 それは常にとって、とてつもなく長い時間だった。牢に閉じ込められていた十五年とは比べ物にならない。


「僕はおじいさんになってしまうの?」


 常の言葉に、暁片の妖が吹きだした。真面目に話をしていたのに、と常は眉をひそめた。


「安心しろ。剣の中では老人にならないようにしておいてやろう。だが、貴様の身体が外に出るときには、元の時の流れに戻す。つまり、三年から五年後の姿となる」


 ほっとした顔をした常を見たのだろう、暁片の妖がくつくつと笑った。



 常の話が終わると、棗愈ザオ・ユィーが考え込むように腕を組んだ。

 

「それで、お前は剣の中で百五十年を過ごしたのか?」


「うん、長かった。暁片の妖と修行をしたり、剣の中を探検したりしたよ。剣の中からは外の世界も見ることができて、黄龍さん……棗绍ザオ・シャオさんが剣の手入れをしてくれていたのも見たよ」


「見られていたか」


 棗绍ザオ・シャオが恥ずかしそうに頭を掻いた。常が消えた直後に残ったのは、壊れた暁片と折れた剣だ。そのどちらかが常の消えた手掛かりとなることは間違いなかった。だから、儀仙堂で大切に保管していたのだ。


「……それで常子远チャン・ズーユエン、これからどうするのですか? 儀仙堂には寝泊りする場所がいくらでもありますが」


 棗瑞玲ザオ・ルイリンが、政主の権限を使ってどのようなこともいとわない様子で、首を傾げた。


「儀仙堂にもっと居たい気持ちもあるけれど、まずは雪雲閣に帰るよ。師兄たちにも会いたいからね。そのあとは、旅に出ようと思う。もっと世界を知りたい。僕はいろんなものを見たいんだ」


 常の返答に棗绍ザオ・シャオが頷いて、棗愈ザオ・ユィーの肩に手を乗せた。


「それが良いだろう。うちの棗愈ザオ・ユィーもそうだが、白虎はお前がいなくなって、随分と落ち込んでいたからな」


「……叔父上!?」


 棗愈ザオ・ユィーはその話を暴露されると思っていなかったのか、飲んでいた氷水を吹き出しかけていた。


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