第68話 遠き日の記憶

「お前、妙な術を使えるそうだな」


 姬陶ジー・タオは、戦で負けた故郷からの捕虜として贄とされる運命であった。若き王は、戦で負けた人々を贄とするのを良しとせず、難癖をつけては逃がした。贄が政の中心であったその時代では、いわゆる変人である。


 そして姬陶ジー・タオは、その変人の王に目を付けられてしまった。きらきらとしたまなざしで、爽やかな笑顔を姬陶ジー・タオに向けている。


「妙な術といっても、まじない程度ですよ」


 それがきっかけだったのかは分からないが、姬陶ジー・タオは捕虜としては珍しく、王の臣下として迎えられた。しかし、戦で負けた身であるため、他の臣下には陰で悪口を言われていた。それは当然で、姬陶ジー・タオからすれば王は敵なのだ。いつ裏切るとも分からないような者を臣下にするほうが異常だと見なされている。


 姬陶ジー・タオは、王に重用されるにつれて、悪口や嫌がらせが悪化していることを肌で感じていた。


 そして本日もまた、姬陶ジー・タオはただ一人、王に呼び出された。


「常河で氾濫が起きたらしい。治水に詳しいという李文啓を連れ、城歴に赴いてほしい」


「はい。ですが、私は捕虜の身です。不敬であることを承知で申し上げますが……このような大切な仕事を私に任せてしまっても良いのでしょうか?」


 これ以上重用されてしまえば、他の臣下から自分に向けられる視線はどうなるのだろうか、と姬陶ジー・タオは思った。王は自分がどう思われようと気にしない変人であるため、姬陶ジー・タオが危惧していることにはまったく気づいていないようだった。


「よいに決まっている。お前はよく働いてくれているからな。故郷を打ち倒した敵が……本当は憎いのではないか?」


「いえ、私はあの時に死ぬはずでした。ですが、このように生きながらえたのは、あなた様のお陰であるのです」


 それは、姬陶ジー・タオの心からの言葉だった。



 一年後、治水が成功し、二人は褒美を王から賜った。李は城歴の地を封ぜられた。姬陶ジー・タオは土地や統治に興味がないことが王にも分かっていたため、土地ではなく物を下賜したのだった。それが青銅でできた短剣、暁片であった。


 今でこそ、剣を贈るのは縁起が悪いとされている。だが、この時代にはそのような話はほとんどなかった。


「お前が前に教えてくれた、太陽に鳥の文様を彫らせた。お前の身に災いが降りかかるのを防いでくれるだろう」


 姬陶ジー・タオは、その時の王の笑顔を忘れることはなかった。


 太陽に鳥の文様は、若き日の王が興味を示した”妙な術”――ジーの故郷に伝わるまじない――の一つだった。動物や植物を模した文様を木や石の表面に彫ることで邪を避ける、という取るに足らない術だ。いや、術とも呼べないほどの、生活に根付いたまじないでしかない。


 しかし、災いを避ける短剣を賜った数年後、この邑では不作が続いた。明日の食べ物にも困るほどの民の困窮に、どうすることもできなかった。さらには病も流行り、当時のできる限りのことは行われたが効果はなかった。ただ、人が死んでいくのを見ていることしかできなかった。


 姬陶ジー・タオは相変わらず臣下として働いていた。臣下たちは皆現状を憂い、王が役立たずだと陰で言った。姬陶ジー・タオなどという捕虜を臣下にするから天下が収まらないのだ、と飛び火することもあった。


「一体どうすればよいのだ……」


 王は事あるごとにため息をつき、日に日にやつれていった。このとき他邑は、この邑に攻め入る隙を狙い、毎日のように小さな戦いが山と山の境で起こるようになっていた。


 そして王は酒に、女性に溺れるようになっていった。現実から逃げるためであったのだろう。臣下など周囲の人間は、直接諫める者もあれば陰で悪口を言う者もあった。

 酒や女性に溺れる王は今までにも居たはずで、それだけなら逃避しているだけだと思われるだけだっただろう。


だが実際は、それだけでは終わらなかった。王を諫めた臣下は皆、贄となることを命じられたのだ。贄をささげるだけの政を嫌っていたのは、ほかでもなく王自身であったはずなのに。


「呉植、張回が贄となった」

 呉植たちは皆、王に忠実な臣下だった。


「どういうことですか? 王がそのようなことをするはずが――」

 姬陶ジー・タオは臣下たちが贄にされたと聞いたとき、耳を疑った。何かの間違いであろう、と。


「王は気が触れたらしい、いつ殺されるか分からん。逃げた方が身のためだろうな」


 その人はさっさとやめて出ていった。やめる者もいれば、贄とされる者もいて、人が減っていく。姬陶ジー・タオを罵っていた人間たちは、この時もうすでにいなくなっていた。


 姬陶ジー・タオは、王を止めなければいけないと思った。このような行いは間違っている。目を覚まさせないといけない、と。

 

「戦いについての報告です。昨日、参山の麓にて交戦した我が邑の者が五十名ほど死んだとのことです」


 姬陶ジー・タオは変わらず、王に対して忠実な臣下として表向きはふるまっていた。そして裏では、王を王から引きずり下ろすことを決意した。


 王の髪や衣は乱れ、部屋の中は投げつけられ壊れた物であふれていた。王の瞳は暗く淀んでいて、目の下には隈ができ、髭も整えられていなかった。王がため息をつきながら、ふとこのような言葉を姬陶ジー・タオに投げた。


「…………お前を贄とするのは最後にする」

「ありがたいことでございます」


 この頃、すでに民は王に怒り、臣下の数は片手で数えられるほどになっていた。もう終わりも近い。


 先程の言葉により、王を止めることは無理だと悟った。目の前の人間はもう、聡明だった若き日の王とは別人なのだと思うほかなかった。


「私が、王を殺して差し上げねば」


 何より、姬陶ジー・タオ自身が落ちぶれた王をこれ以上見たくはなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る