第54話 炎の中

「ここは、どこ…… ? 師兄? 瑞玲ルイリン?」


 常子远チャン・ズーユエンが辺りを見回すと、いるはずの秋一睿チウ・イールイ棗瑞玲ザオ・ルイリンの姿はどこにもなかった。


 常子远チャン・ズーユエンのいる建物全体が燃えている。足下からは赤い火の粉が舞い上がり、爆ぜる音が耳元まで届く。


 遠くには、燃えている人間たち。そして、自分の横にはこと切れた男が一人。よく見ると、所々焦げてはいるが位が高そうな服を着ているようだ。その男は、どこか安らかな顔に見える。


 常子远チャン・ズーユエンには何個か違和感があった。しかし、何が引っかかっているのかが分からない。


「ひっ…… !?」

 ふと常子远チャン・ズーユエンが手元を見ると、自分の手が血に濡れていることに気づいた。そして、血に塗れた手で青銅の小さな短剣を握っている。


「なに、これ…… ?」

 

 常の問いに答える者はいない。

 突然視界が揺れて、隣で亡くなっている男も、手についた血も、燃える建物も、かき混ぜたようにぐるぐると回る。常は気分が悪くなって、思わず目を閉じた。


 ◆


 次に目を開けると、そこは違う場所だった。辺りは燃えておらず、自分の手は血で汚れてはいない。


「よかった…… 」


 常は安堵して息を吐いた。目の前には位の高そうな人間が座っている。どこかで見たことがあると思えば、先ほど炎の中で、こと切れていた男だ。ひげが立派だが、ひげを剃れば意外と年若いように見える。


姬陶ジー・タオ、此度の働きは見事であった。お前を呼びつけたのは、渡したい物があるからだ」


 常の身体は、常の意思に関係なく、恭しく拱手をするのだった。


 常の違和感の正体が分かった。いつもより口から発せられる声が低く、いつもより頭一つ分ほど目線が高いのだ。


 そこでようやく、今の身体は常子远チャン・ズーユエンではなく、誰か違う人間なのだと分かる。話から察するに、姬陶ジー・タオと呼ばれている者だろうか。


「滅相もないです。私が大業をなしたのではなく、あなた様が大業をなしたのです。ご指示が素晴らしいから、皆が付いてきているのです」


 常の口が勝手に話し出す。姬陶ジー・タオの声、表情、身体の全てから目の前の男を尊敬しているのが感じられる。


「そう畏まるな。お前は謙遜しすぎるきらいがある」

「申し訳ありません。命とあらば、私の首を差し出します」


 そう姬陶ジー・タオが答えると、目の前の男が頭を抱えた。


「何故そうなるのだ!? いつも何かあるたびに首を差し出すのはやめろと言っているのに…… 」

「何故もなにも、あなた様が生かした命ですから、私の首を刎ねようが足の肉を断とうが自由なのですよ」


 姬陶ジー・タオの口の端が上がった。微笑んだのだろう。


「だから、そういうのはやめなさい……。ああ、お前の悪癖を指摘していて忘れるところだった。これを渡そうと思っていたのだ」


 そう言って目の前の男が布の包みを取り出した。それを開くと出てきたのは、青銅でできた短剣だった。草木のごとき色をした刃は艶やかに光っている。よく見ると、柄の部分に何かの文様が彫られている。


「此度の褒美として作らせた。お前が土地は必要ないと言うから、物にしたのだ。良い品だろう。お前を守るまじないも施してもらった」


 満足そうに目の前の男が顎を触った。褒美と言うからには、さぞ高価な代物なのだろうと常は思った。


「私がいただいても良いのですか?」


「ああ。先ほどからそう言っているだろう」


 姬陶ジー・タオは恭しく剣を受け取り、剣を両手で持って近くで見つめた。


「この剣の名前はなんと言うのですか?」

「うっかりしていた。決めていなかったな。……では、今決めよう」

「なんと有難いことでしょうか」


 剣の柄に彫られていたのは、太陽や動物をかたどった文様だった。それを見つめて目の前の男が目を細める。


「お前は、お前たちは皆、太陽を支える手なのだ。だから、どうかこれからも支えてほしい。この剣は太陽の一部ともいえる。……太陽の欠片を授ける、という意味で“暁片”というのはどうだ?」


 暁片! 聞き慣れた名だ。

 常に思い当たるものがあった。書簡で読んだ王とその臣下のことだ。


 姬陶ジー・タオが目の前の男にやたら恭しい態度をとるのも、褒美を賜ったのも、王と臣下ならば説明がつく。

 

 ならば、暁片を授けたとされる暴君、帝寿ディ・ショウが目の前の男で、帝寿ディ・ショウを殺した臣下が姬陶ジー・タオなのだとしたら。


 先ほど常が見た炎の光景は、臣下が王を殺す情景だったのだろうか。


「なんと美しい名なのでしょうか。身に余るほどの僥倖にございます」


 常、いや姬陶ジー・タオの頬に熱いものが流れ、思考が引き戻される。触ると、それは涙だった。涙を流すほど彼は喜んでいるのだ。


 そして、涙と混ざるようにして急に常の視界がぐるぐると混ざり始めて、ぷつりと意識が途切れるように闇へと落ちていく。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る