第51話 園林に潜む影

 数刻が経った頃、常子远チャン・ズーユエンは順調に木でできた書簡を読み進めていた。

 

 当時の王には優秀な臣下が居たらしい。その臣下に褒美として王が下賜した物が暁片なのだ、と書簡には書いてあった。


「臣下が優秀だったから、その人に王が暁片をあげたってことだよね」


 常は自分の言葉にうんうんと頷きながら、書簡を読み進めていく。


「あれ……この文字、どういう意味だろう」


 次の文を読もうとして、常子远チャン・ズーユエンは意味を知らない文字を見つけた。そこだけ意味が分からなくて、読み進められないのだ。この文字は、鄭蔚文チェン・ウェイウェンの詩には無かった文字だ。


 そこで、常は誰かにその文字の意味を聞くことにした。常が書簡から顔を上げて辺りを見回すと、秋一睿チウ・イールイは黙々と木の書簡を読み進めているのが見えた。麻燕マー・イェンはというと、体を横たえて眉間にしわを寄せて頬杖をつきながら竹の書簡を読んでいる。なぜか麻燕マー・イェンの周りには木簡やら竹の書簡が散らばって置いてあった。読むのに飽きた書物が置いてあるのだろうか。


「師兄。知らない文字があるから、意味を教えてもらいたいんだけど、いい?」


 常が秋の所に歩いて行って声をかけると、秋は書物から顔を上げた。


「ああ。どの文字だ」

 秋が常の差し出した木簡を覗き込んだ。


「ここだよ。この字だけが分からないんだ」


 常が分からない文字は、よりにもよって何をしたのかを表す文字だ。臣下が帝に対して何かをしたのかは分かるが、“何をした”のかが分からなかった。


「………… 」


 秋は黙ってその文章を見つめていた。まさか秋でも分からないような難しい文字なのかと常が心配して口を開きそうになったとき、秋が呟くように言った。


「…… これは、”殺”と読む。殺すという意味だ。だから、この文章は」


「臣下が、王を、殺した…… 」


 常が文章を読み上げると、秋は頷いた。李氏によく言われた言葉だから、字は分からずとも音と意味は知っていたのだ。


「……ありがとう、師兄」


 そう言った常の顔を、ただ秋はじっと見つめた。


 常が知っている文字は、鄭蔚文チェン・ウェイウェンによって書かれた詩や、鄭蔚文チェン・ウェイウェンに地面に書いて教えてもらったもののみだ。チェンは心優しい青年であるから、この文字を教えなかったのだろう。


 そのことを察した秋も、言葉を教えるのを躊躇ったのかもしれない、と常は思った。


 そのまま常がぼうっと立っていると、見かねた麻がぴょこんと起き上がって、常の持っていた木簡を取り上げた。


「よし、気晴らしに外でも行こう、子远ズーユエン! 玄郭には園林えんりんがあるんだ」


「でも、まだ全然読めていないんだけど…… 」


 木簡を取り上げられて手持ち無沙汰になった常は、ぎゅっと自身の短衣の裾を握った。


「行ってこい。一日でこの量を読めるわけがないだろう。麻燕マー・イェンの散らかした書物も私が片づけておく」


 秋が伸びをしながら立ち上がって言った。

 麻はそれを見て嬉しそうに笑い、突っ立っている常の手を引いて駆け出した。


「青龍さん。園林って何?」

「見れば分かるさ!」


 玄郭の建物の裏手に回ると、木の茂みに覆われるようにして、塀を丸く切り取ったような月亮門があった。二人が月亮門をくぐり抜けると、そこは意外にも開けた場所だった。


 まず、常が今までに見たことのないほど巨大な池があった。その巨大な池には玄い漆塗りの橋が架かっており、橋の向こう側には黒に朱の差し色で六角形の亭があった。植えられた松柏の類いが微かに風に揺れている。天気は曇りのためあまり良くないが、それでも十分に良い景色だと常は思った。


「すごい、ここが園林!」


 常が目を輝かせて言った。


「そうだよ。園林は他の場所にもあるけれど、こんなに広い園林は帝の園林と、ここくらいだね」


 二人は橋を渡り、景色を眺めながら亭までゆっくりと歩いていく。


「帝って王のこと? 今もいるの?」


 木簡では、王は臣下に殺されたと書いてあった。それはずいぶん昔のことだろうが、常は気になったのだ。


「いるよ。でも、今はほとんど形だけだね。各勢力の政主が力を持ちすぎてしまったんだ」


 常はふうんと興味なさそうにして、歩きながら池の水面を見つめた。名も知らぬ魚が悠々と泳いでいる。


「青龍さん。帝を殺したらどうなるのかな?」

「え。君、帝を殺したいのか?」


 悪い笑いである。


「ち、違うよ! 木簡に書いてあったんだよ!」


「わかってるさ。帝を殺したらどうなるか…… 帝は人間だから死ぬ…… いや、駕崩がほうする、が正しいかな」


 そういうことを聞きたいのではなかった。帝を殺した側の人間はどうなるかを常は聞きたかったのだ。


「もういい。師兄に聞くから」

「あはは、からかいすぎたね。そのとおり、座学が苦手な私よりも一睿イールイに聞いた方が早いよ」


 二人は亭の内側にある、ちょうど腰掛けやすい場所に座った。亭の屋根の内側は細かい文様が施されていて、遠くで見るのとはまた違う趣があった。


雪雲閣せつうんかくはどうだい? 楽しいかい?」

「うん。あんまり戻ってないけど」


「楽しいだろうね、私も楽しかったなあ」


 麻が遠い目をした。おおかた過去のことを考えているのだろう。


泉古嶺洞せんこれいどうは楽しくないの?」


 そう聞いてから、玄郭げんかくの宿で昨日麻が言っていたことを思い出して、常は青ざめた。


「ごめん、青龍さん。昨日言ってたね。あんまり楽しくないって」


「いや。ああは言ったけれど、泉古嶺洞はそこまで悪い所じゃないよ。今の泉古嶺洞うちの政主は、他の国との交易を結んで、それを頻繁に行っているんだ。交易品の多くは天弥道や儀仙堂に行くけど、新しい品物も入ってくる。…… どうしても悪い所ばかり目についてしまうけれど、もちろん良い所もあるんだ。若い門下生も沢山いて皆の成長は楽しみだし」


 亭にもたれかかるようにして、麻は酒を飲もうとして酒甕を持っていないことに気づいた。


「僕、泉古嶺洞にも行ってみたいな」

「お、興味ある? 門下生と手合わせし放題だよ! 君が手合わせする気がなくても、向こうから挑んでくるかもね!」


 そう笑っていた麻が急に真面目な顔つきになった。


「…… 子远ズーユエン。私たちが見られている」


 すぐさま麻が園林を囲んでいる塀の外に向かってすぐに自身の剣を振り投げた。放物線を描きながら、まっすぐに剣が飛んでいく。


「え?」

「こちらを見ている人間がいたんだ。なーんか嫌な感じがしてさ」


 麻が手を振ると、剣が塀の外から飛んで戻ってきて、手に戻った。麻は見られていたと言うが、常には一里ほど先の場所に人がいることすらも分からなかった。常が頭を振り回して辺りを見回す。


「え? そうなの?」

「そうだよ! 血がついていないところを見るに、避けられたね」


 麻は刃先がきれいなままの剣を一目見て、立ち上がる。


子远ズーユエン、そろそろ戻ろうか」

「…… うん」


 二人は書簡を読み進めている秋のところへ戻った。麻が散らかしていた書簡は綺麗に片付けられている。二人が園林であったことを話すと、秋が書簡から顔を上げて麻の顔を見つめた。


「怪しい視線、か」

「うん! 逃げられたけどね」


 麻が頭を掻きながら笑った。


「お前が投げた剣で人間を貫いて、そいつが死にでもしたら、お前が大変な事になる」

 秋はいつもと同じように真面目な顔つきをしており、珍しくため息をついた。妖鬼討伐の頭は人を殺してはいけないからだ。


「大丈夫。もしそうなっても、どうにでもなるさ」

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