第73話 穏やかな日々

「青龍! 白虎! 大丈夫か!」


 季宗晨ジー・ゾンチェンたちを呼びながら、黄龍の棗绍ザオ・シャオと門下生たちが現れた。外からの光が小屋の中を照らす。その声に安心したのか、季宗晨ジー・ゾンチェンの紡いでいた赤黒い糸がふっと解ける。糸が解けると同時に、季は崩れ落ちるようにしてその場に倒れた。


「白虎!? 紙鳥しちょうで人を呼びなさい! 早く!」


 暗くなる視界の中で、季宗晨ジー・ゾンチェンの目には珍しく慌てた様子の棗绍ザオ・シャオの顔だけが見えた。



 目覚めると季宗晨ジー・ゾンチェンしょうの上に寝かされていた。ここは儀仙堂らしく、季が起きたことに気がついた棗绍ザオ・シャオが近づいてきて、季の顔を見て安堵したような顔を見せた。


 それから、医家に見てもらったり、野菜が入ったあつものをやっとの思いで飲み食いして、数日が過ぎた。


「天客の梁建宏リェン・ジェンホンが亡くなった。門下の顾奕グー・イーは右目と右手が使い物にならなくなったが、梁建宏リェン・ジェンホンがかばっていたおかげで無事だ。青龍の岳明亮ユエ・ミンリャンも命だけは助かった。しかし、青龍はもうこの先、立って歩くことは叶わないだろう」


「そうですか」


 棗の説明に、季は微かに頷くことしかできなかった。心は妙に凪いでおり、棗の声だけが響く。


「すまない、白虎よ。私が指示しなければ青龍とお前はあんなことにならなかった……」


 季は、このとき棗の落ち込んだような表情を初めて見た。


「黄龍殿、あのようなことが起きるとは、誰にも予想できませんでした。もちろん、あなたにも」


 季には、あの日のことについて実感がなかった。人間に対して殺意を持ったことも。まるで夢を見たかのように遠い。

 あのとき、確かに刺客たちを殺そうとした。赤黒い糸で、彼らの首を締め上げた。しかし、そこへ棗が駆け付けたため、刺客たちは気絶をしただけだったらしい。だから、季は人を殺してはいない。


「黄龍殿。私には白虎である資格がありません」

「……急にどうした?」


「私はあの時、刺客たちを殺そうとしたのです。それも、禁術を使って」


「そうしなければ殺されていたのだろう? それに君は人を殺すに至っていないし、君の使った術が禁術とは限らない」


「黄龍殿、私を罰してください。……私は怖いのです。あの日から、どんな物を触っても感覚はないのです。どうしても、前のようにはいかないでしょう。危機が迫ったとき、私はあの術を使ってしまうかもしれない」


 一度剣の突き刺された手では剣を握れないかもしれない。一度剣を突き刺された足では、もう走れないかもしれない。そしてなにより、目が覚めてから触覚が消えていた。


「……今は安静にして、休みなさい。時が解決することもある」



 季節が変わり、季宗晨ジー・ゾンチェンはどうにか立つこともゆっくりと歩けるようにもなった。だが、健を斬られた手で剣を握ることは難しく、依然として身体の感覚は無いままだ。


「師父! お体の調子はどうですか」


 儀仙堂で療養していた季が雪雲閣に戻ると、二人の弟子は目に涙を浮かべて飛びついてきた。飛びついてきたことも、目で見なければ分からなかった。


「問題ないよ。ただ、あまり動けそうにないけれど」


 少し遠くで政主の沙渙シャー・フアンや、書部や呪部の者も季を心配して見つめていた。秋一睿チウ・イールイ冷懿ラン・イーの頭を撫でると、二人が笑顔になった。


 沙渙シャー・フアンが季に向かって歩いてくる。


季宗晨ジー・ゾンチェン。二人で今後の話をしたい。良いか?」

「もちろんです」


 沙渙シャー・フアンに促されて書部や呪部の者、秋一睿チウ・イールイ冷懿ラン・イーが外に出ていく。それを見届けてから、沙が話し始めた。


季宗晨ジー・ゾンチェン、白虎の職を他の者に譲りたいと聞いたが」

「はい」

「だが、他の門下生には白虎になるほどの剣の技量や器量はなく、秋一睿チウ・イールイ冷懿ラン・イーもまだ幼い。私には、棗殿のように政主と兼任するほどの体力もない」


 悪い予感がした。しかし、季は沙渙シャー・フアンの話の続きを促すことしかできない。


「……つまり?」

「お前にはまだ白虎を続けてもらいたい」


 季は、実際にその言葉を聞いた途端に、目の前が暗くなったような気がした。


「私は剣すらも握れないのに、この先白虎としてどうやって妖鬼と戦えばよいのですか? 私が白虎でいるくらいなら、力不足であろうとも他の者を白虎としてください。……師父! 私は、あの日からおかしくなってしまった。このような人間は白虎であるべきではありません! 私が、私が一番分かっているのです!」


 李は沙に縋りついた。


「……分かった。門下生の台忠タイ・チョンを白虎代理としよう。君は療養に努めてほしい」


 季はそれに答えず、その目にはうっすらと涙が浮かんでいた。


 ◆


「――さん、お兄さん!」


 季がはっと気が付くと、常子远チャン・ズーユエンの顔が目の前にあった。


「ごめん、過去のことを思い出してしまって。最近多いんだ、今なのか過去なのか分からなくなる」


「……お兄さん、こっちが“今”だよ」


 季が今居るのは雪雲閣ではなく、常院楼の地下の牢だ。気づくと、常子远チャン・ズーユエンの身体から取り出されようとしていた暁片はどこにもなかった。大方、暁片は常の身体の中に戻ったのだろう。季は口惜しそうに常の交襟をなぞるように触った。


「危害を加えたのに心配してくれるなんて、君は本当にやさしい子だね。私には、そのような資格はないのに」

「だってお兄さん、泣いてるから」

「……」


 そう言われて初めて、季は自分の視界がぼやけているのに気付いた。


「暗いのに、よく気付いたね」

「ずっとここで暮らしていたから」


 常子远チャン・ズーユエンは当たり前のように言った。過去への苦しみも、痛みを乗り越えた者の目をしていた。

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