第93話 日常へ

 数日後、常子远チャン・ズーユエンが儀仙堂を発ったという紙鳥しちょう雪雲閣せつうんかくへと届いた。


 暦の上ではすでに初夏であるのに、雪雲閣にはちらちらと雪が降っている。その中を、秋一睿チウ・イールイが歩いている。静虎殿せいこでんの中をうろつくのでは飽き足らず、雪雲閣をあてもなくうろついているため、門下生たちが何事かといつも以上に気を引き締めている。


 何せ目の前で消えてしまった常子远チャン・ズーユエンに会えるのは四年ぶりなのだ。秋一睿チウ・イールイには珍しく、随分と落ち着かない様子である。政主・黄龍継承の儀に赴いていた政主の沙渙シャー・フアンから、急ぎの紙鳥が届き、常子远チャン・ズーユエンが戻ってきたことを秋一睿チウ・イールイは知った。しばらくただ紙鳥を手に立ち尽くしていたが、はっと気が付いたように何度も文章を読み返して、四年の間張りつめていた心が元に戻ったように安堵した顔になった。


 常子远チャン・ズーユエンが消えてしまってから、表情には全然出なかったが秋一睿チウ・イールイは二日ほど静虎殿の中で寝込んだ。初めの一年は、前と同じように鍛錬や妖鬼討伐を行っているように見えても、どこか上の空であった。師匠の季宗晨ジー・ゾンチェンも目の前で消えてしまったので猶更落ち込んでいたのだろう。


 冷懿ラン・イー沙渙シャー・フアンはそっと遠くで見守るしかなかった。それに対して泉古嶺洞せんこれいどう麻燕マー・イェンが雪雲閣を訪れては外へ引っ張り出そうとしており、何度か失敗していたが立春の頃にはようやく雪雲閣以外の人間とも交流するようになった。その様子を見て、冷懿ラン・イー沙渙シャー・フアンは安心したものだ。


 うろついていた秋一睿チウ・イールイが住まいである静虎殿せいこでんへと戻ってくると、雪の上に一つの足跡があった。それを辿っていくと冷懿ラン・イーが漆塗りの木箱を持って入口付近に立っていた。


白虎殿びゃっこどの、頼まれたものを持ってきましたよ」


「感謝する、冷懿ラン・イー。外はまだ寒いだろう。先に入っていても良かったのだが」


 静虎殿に入った冷がせっせと漆塗りの箱を開けた。持ってきたのは、いつにもまして豪華な食べ物であった。鹿肉と芋のあつもの、米、豆腐、山桃や梅などが並んでいる。雪雲閣はまだ雪が積もっているので季節が分かりにくいが、山桃や梅は立夏を過ぎた今がよく採れる季節だ。冷は食べ物の旬まで熟知しているのだろう。


「今日は常子远チャン・ズーユエンがこちらへ帰ってきますからね、様々な食材を山の上まで運んできましたよ」


 前よりも各地での交易が盛んとなっているが、参山シェンシャンにある雪雲閣に物資を運ぶのは難しい。物資を背負って山に登るか、雪雲閣で使われている技である銀糸を使用して慎重に荷車を運ぶくらいしか方法がない。荷車を使ったとしても、一度に輸送できる量はたかが知れている。


「たまには休め、お前は働きづめだろう」


「では、天弥道にでも行ってお酒でも飲んできましょうかね」


「……天弥道で顾奕グー・イー殿どのと外交の話をするつもりなのか? 外交やまじないの話をしては、休んでいることにならない」


「ですが、動いていないと落ち着かない性分なのです」


 そう言っている間にも、冷は外から几を運んできて料理を並べ始めた。手際よく準備されていくのを秋がぼんやりと見つめているうちに終わってしまった。この四年のうちに冷は更に素早く仕事をこなすようになってしまい、雪雲閣で右に出る者はいない。


 そんな他愛もない話をしていると、冷と秋は静虎殿に近づいてくる足音を聞いた。もしかして、と二人は顔を見合わせて入口へと向かう。


 戸を開けるとすらりとした青年が立っていた。雪が降ってきて融けたのか、朝露のように濃い色の髪が小さくきらめいている。空青色の直裾袍に白雲母のような色の外套を着ている。


 背が一寸ほど伸び、少し声の低くなった常子远チャン・ズーユエンが柔らかく微笑んだ。


「ただいま、秋師兄、冷師兄」

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雪花に舞う暁の破片 狩野緒 塩 @KanooSio

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