第60話 玄郭の思い

 常子远チャン・ズーユエン玄郭げんかくの地下にある牢に入れられて、大人しくしていた。ここで巴蛇はだの陣で抜け出したり、折れた剣の力を使って牢を壊したりしたならば、雪雲閣せつうんかくにも、儀仙堂ぎせんどうにも迷惑がかかる。だから何もせずにじっとしている他はないのだ。


 牢のすぐ外では玄武の智墨辰ヂー・モーチェンがつまらなさそうに見張りをしている。傍らに置かれた銅燈の上では、ゆらゆらと小さな炎が揺れている。


 牢の中で一人座っていると、常院楼じょういんろうの地下で閉じ込められていた時を常子远チャン・ズーユエンは否応なく思い出す。


 暗い部屋も、張り巡らされた木枠も、全てが遠い昔のようだ。あのとき常子远チャン・ズーユエンを閉じ込めていた李紹成リ・シャオチァンは殺されて死んでしまったらしいが、実感は湧かなかった。


「ねえ、玄武さん」


 常は牢の外に立っている智墨辰ヂー・モーチェンに話しかけた。


「お前! 静かにしてろよ!」


 智墨辰ヂー・モーチェンがものすごい剣幕で振り向いた。ほこを持つ手が怒りか何かで震えている。


「暇だもん」


「何が暇だもん、だ! 政主様せいしゅさまめいがなければ、僕はお前を殺していた!」


 智墨辰ヂー・モーチェンは、後ろから人の足音がしたため振り返った。振り向きざまにほこを向けようとして、歩いてきた人間の顔を確認すると、途中で軌道を逸らして刃を地面に突き立てた。


「それは言い過ぎだよ、玄武」


 足音の主は玄郭の政主、于涵ユィー・ハンだったのだ。珍しく、玄郭の政主であることを表す外套を着ている。


「政主様! 申し訳ありません」


 謝る智墨辰ヂー・モーチェンを手で制し、牢の前に于涵ユィー・ハンは立った。


常子远チャン・ズーユエン、玄武のことを悪く思わないでくれ。恨むのなら、政主の私を恨みなさい。玄郭は成立してから日が浅い。それに、私は多くの人を惹きつけるような人間でもない。私たちには、大きな力を持つ法宝ほっぽう“暁片”が必要なんだ。歴史や書簡の記述を重んじる玄郭としては、本来ならば言い伝えに沿って“厄災を招く子”の君を殺すべきだがね」


 于涵ユィー・ハンは玄郭の何もかもを背負い込んで立っているのだ、と常は思った。于涵ユィー・ハンの濃い色の瞳が、銅燈の火を反射して煌めいている。


「玄郭の政主さん。僕は玄郭の考えも理解できるから、恨めない。僕が玄郭の政主さんであっても、“厄災を招く子”を利用したいと思うだろう。でも、玄郭の人は十分に政主さんを慕っているように見えたよ。暁片を利用しなくても、みんな政主さんに着いてきてくれると思うけど」


「な、お前! 政主様に対して口の利き方がなっていないぞ! 様を付けろ!」


 于涵ユィー・ハン智墨辰ヂー・モーチェンに対して、たしなめるような視線を向けた。


「…… 玄武」

「ですが、政主様!」


「落ち着きなさい、玄武。冷静にならなければ、見えるはずのものも見えなくなる。…… 常子远チャン・ズーユエン、君たちが読んでいた書簡は、玄郭うち書部しょぶで読み進めているよ。終わったら君に内容を伝えよう」


 于が身をかがめて、常と目線を合わせて微笑んだ。


「ありがとう、玄郭の政主さん」


「このような場所に閉じ込めているのは私たちだからな。せめて、黄龍殿こうりゅうどのからの頼まれごとは完遂できるようにしないと」


 大人しく話を聞いているかのように思われた智であったが、堪えきれなかったのか吠えるように叫んだ。


「な、なぜ政主様は、こいつの力になろうとするのですか!」


 真面目な顔つきで、于は智に言い聞かせた。玄郭の園林にある澄み渡った池のように、静かで透明な声が地下に響く。


「玄武。少しの間だけだが、私たちは共に玄郭で過ごしたのだ。彼がどんな人間なのかは、実際に話をしてみれば分かるさ」


 その言葉が身体に染み渡るようにして理解されると、突然常の目から涙が零れた。


「は? なんでお前泣いているんだ?」


「……僕にも分からない。玄郭の政主さんの言葉を聞くと、たまに泣いてしまうんだ。とても優しくて、僕に字を教えてくれた恩人を思い出すのかも」


 于が興味深そうに顎に手を当て、常に顔を近づけた。

 

「字を教えてくれた恩人? 君、そういえば前も私の言葉を聞いて苦しんでいたな」


 于の問いかけに、常は恥ずかしくなりながらも頷いた。


「うん。ちょうど今みたいに、僕が常院楼に閉じ込められていたとき、鄭蔚文チェン・ウェイウェンという人が僕に言葉を教えてくれたんだ。だから、今の僕は字も読めるし、こうやって話もできる」


チェン…… 蔚文ウェイウェン。もしかして、チェン家の二番目の息子のことか?」


「どういうこと? 鄭蔚文かれを知っているの?」


 常は牢の木枠を掴み、できる限り身を乗り出した。


「ああ。知っているも何もチェンの家は、紙を作っている大きな家だからね。玄郭うち書部しょぶチェン家から紙を買っているんだよ」

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