第57話 意思のない偶人

 どこかの判部の建物の地下、日が昇っているのか沈んでいるのかも分からないほど暗い通路には、からの牢が並んでいる。その一番奥には、李紹成リ・シャオチァンの牢があるのだった。どこからか、その牢の中に入ってくる人物がいた。


 その人物がゆっくりと歩いてきて、闇に溶けていた姿が次第にはっきりとしてくる。牢に入ってきたのは、波打った黒髪を頭の高い位置で束ね、石緑せきりょく色の曲裾袍きょくきょほうを着ている人物――常子远チャン・ズーユエン巴蛇はだの陣を教えた青年だった。


李紹成リ・シャオチァン。聞こえているかい? 目は潰されていても、耳くらいは聞こえているよね?」


 水が流れるように滑らかな言葉が李紹成リ・シャオチァンにかけられる。

 その声を聞いて、後ろ手に拘束されて地面に転がっている李がうめき声をあげた。布を噛ませられていて喋ることもできず、手が動かせないため後頭部の辺りで縛られた布を解くこともできないのだ。


 李紹成リ・シャオチァンの様子をじっくりと観察して、青年は薄く笑った。


「今日私がここへ来た理由は、分かるかな? 君を殺すためだよ。私もこのようなことはしたくないけれど、私たちの研究を君が口外したから、あるじからそのようなめいが下ってしまった」


 それを聞いた李が地面をのたうち回り、うめき声をあげた。


「そんなに暴れてどうしたんだい? ああ、喋れないのか。気づかれるかもしれないから、大きな声を出さないでね」


 ゆっくりとしゃがんで李の顔をよく見た後、青年は李の口に噛ませられている布を“何か”で切り落とした。


「―― 違う! 私は口外していない!」


 李が叫んだその瞬間、青年の手が李の口に無理やり当てられた。


「大きな声を出さないでって言ったのに。念のために見張りは眠らせておいたけどさ。…… 話を戻すけれど、研究のことを口外しなかったとしても、気づかれたら同じだよ。それに、私たちに黙って“厄災を招く子”を幽閉していたなんて、酷いじゃないか」


 李はこの青年と何度も会ったことがあるが、今この時に初めてこの青年を恐れた。


 青年は声に感情が乗っておらず、何を考えているのかが分からないからだ。霧のように、全てに掴みどころがない。李の目が見えなくなったからこそ、それがはっきりと分かる。


「私も、こうなるとは思わなかったのだ…… 」

「君の事情はどうでもいい。いずれ口外されることも計算の内だったから、それも別に気にしていないよ」


 どうやら青年は微笑んだらしく、軽く息を吐いた。


「少し残念だったのは、常院楼じょういんろうの地下に置いていた陣が偶然作動したことだね。別の場所に入れておいた死体たちが転送されて、秋一睿チウ・イールイに殺されたから、半分近く居なくなってしまったんだ。これは私の過失でもあるけれど」


 秋一睿チウ・イールイ常子远チャン・ズーユエン常院楼じょういんろうの地下から逃げ出すとき、大量の動く死体が襲い掛かってきた。それは、青年が置いていた陣が作動して死体が牢の中に転送されたからだったのだ。


 李紹成リ・シャオチァンが低い声で尋ねた。


季宗晨ジー・ゾンチェン…… お前は何がしたいんだ」


「おや、知っていたんだね。私の昔の名前を」


 季宗晨ジー・ゾンチェンと呼ばれた青年から一瞬だが、笑顔が消えた。


「…… 雪雲閣せつうんかくの赤い目の白虎は破門されてなお有名だ。”黒衣”よりも、な」


 ”赤い目の白虎”と聞いて、青年がわざとらしくため息をついた。


「この眼は目立つから本当に嫌だね。でも、君が私の名を知っていても、あまり意味はない。君は何もできずに死ぬだけだ。…… そうだ、私が何をしたいか、だっけ? もはや自分でも分からないんだよ。私は、ただめいを遂行するだけだから」


 青年の言葉を聞いて、李は鼻で笑った。


「まるで芝居に使われる偶人ぐうじんだな。操られて、自分の意思もない」


 偶人ぐうじんとは、木でできた人形のことである。


「そうだね。そして、君はそんな偶人に殺されるんだ。…… ねえ、李紹成リ・シャオチァン。死ぬ前に、何か言い残すことはあるかい?」


「…… 城歴じょうれきの地はどうなる?」


儀仙堂ぎせんどうが管轄するという話を聞いたよ。黄龍殿こうりゅうどのなら、うまくやってくれるだろうね」


 そうか、と李が微かに頷いた。たとえ拘束され、足を折られ、目を潰されようと、李紹成リ・シャオチァンは確かに城歴の地の主であった。


「私は、城歴の地が平安であるならそれで良い」


 その言葉を聞き届けて、青年が立ち上がった。


 青年が手を振り下ろすと、紅い円の中に牛のような文様が浮かび上がり、陣が発動した。陣の力なのか、“何か”によって李の首が切り落とされる。


 李の首と胴が離れ、切断面から血が吹き出る。首が緩やかに地面を転がっていく。その様子を青年は静かに見ていた。そして、呟いた。


「私は、君が羨ましい。人として生きて、そして死ぬことができた。本当の苦しみを知る前に生を終えられた。……どうか君が天に昇り、もう二度とこの地を踏むことはありませんように」

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