第50話 沢山の書物

 日が明け、玄郭げんかくにて。常子远チャン・ズーユエン秋一睿チウ・イールイ麻燕マー・イェンの三人はもう一度玄郭の政主、于涵ユィー・ハンに会いに行くのだった。玄郭には政主の部屋すらもないので、蔵書殿ぞうしょでんの書棚前の広い空間で立話をしなければならない。


 昨日訪れたときと同じく、皆冥色めいしょくの深衣や袍を着ている。冥色を身に纏うのが玄郭の決まりなのだろう。


 その中に、浅雲せんうん煙墨えんぼく青雘せいわくの色を身に纏った三人が歩いていると、よく目立つ。蔵書殿に人が訪れることが少ないのだろう、物珍しいのか、三人が歩くと人々が凝視してくるのだった。


 書物を整理している人間のうちの一人が振り向いた。それは政主の于涵ユィー・ハンだった。他の者が来ているような冥色めいしょくの質素な深衣を着ており、政主であることを示す外套を今日も身につけていない。


「君たちのことを待っていたんだ。昨日は追い返してしまったが、今日は時間を調整できたから安心してくれ」


 于涵ユィー・ハンは、手に竹簡や木簡を山程持っていた。秋と麻には書簡を沢山渡して、常には三冊ほど紙の書物を渡した。


「お気遣い感謝する。これは?」

 秋が問うと、于が不敵に笑った。


「朝のうちに暁片と“厄災を招く子”に関する書物をそろえておいた。あちらに集めて置いてあるから、好きに読むと良い。持ち出しはできないがな」


 于が手で示した先には、布の上にずらりと並べられた書物があった。部屋の一角を占領するほどの竹簡と木簡、その中には布製の書物や紙製の書物もある。前に、于は全ての書物の内容を覚えていると冷が言っていた。それは本当なのかもしれない、と常は静かに感動した。こんなに多くの書簡を一日で取り出せるなんて、と。


「これ全部暁片に関係ある書物なの?」


 常が于に聞くと、于は頷いて竹簡の一つを開いて指で示した。


「そうさ。ここを見てごらん、暁片という言葉があるだろう。その文字の周りを見れば、暁片についての内容が書いてあると分かるんだ。ここには、何が書かれているか読めるかい?」


 書簡にはずらりと文字が並んでいて、常は気が遠くなりそうだった。それでも、なんとか暁片の文字を探し出し、一つの文章を口に出して読んでみる。


「えーっと、王が暁片を作った、かな?」


 于は竹簡を戻して、常と目線を合わせるように中腰になった。


「そうだね、この文章から言えることは、暁片が王によって作られた、ということだ。だが、他の書物を読んだらこの王とは別の王が作ったと書いてあるかもしれない。書かれた時代によっても書いてある内容が違うこともある。時代が後になればなるほど、想像で書かれた書簡が多くなる。それを根気よく、根気よく見なければいけないんだ」


 それを聞いて常は、本当に自分が目の前にある書物を読むことができるのかと不安になった。


「ちょっと僕には難しい、かも」


 常が恐る恐る言うと、于が優しく微笑んだ。


「大丈夫さ、分からないことは私や玄郭うちの書部に聞けばいい。それに、青龍殿せいりゅうどのは…… ともかく、白虎殿びゃっこどのもいる。黄龍殿はこの数の書物を一人で読めとは言っていないはずだ。皆で協力をするのも大切なことだよ」


 ともかくと言われた麻は于を首を傾げて大きな目でじっと見つめたが、于はその視線を躱すように、あいまいな笑みを浮かべるだけだった。


 常は少し不安げに于を見ていたが、はっと思い出してお礼の言葉を言った。


「あ、ありがとう、玄郭の政主さん」


「いいや、蔵書殿の主としては当たり前のことだ。君が書物を読むことを少しでも好きになってくれたら嬉しいんだ。書物を読むことで、君の世界が広がるだろうから」


 その言葉に頷きつつも、常は何故だか鄭蔚文チェン・ウェイウェンを思い出してしまった。于の笑顔が彼の笑顔と重なり、目から涙があふれそうになる。


 今字を読めるのも、今話をできるのも、鄭蔚文チェン・ウェイウェンのおかげであるのだ。


 書物を読むことで、実際に常の世界は広くなった。


 口を引き結んで胸のあたりを押さえだした常に、于が心配して声を掛けた。


「どうしたんだい? どこか痛むのか?」

「いや、前にも同じようなことを言われたような気がして。ただ、懐かしくなっただけだよ」


そう口に出すと、余計に鄭蔚文チェン・ウェイウェンが遠くなった気がした。つい、チェンのいた場所に戻りたくなる。


 けれど、そこは暗くて狭い地下の牢だ。そして常はもうすでに飛び立った鳥であるのだ。どんなに悔いがあったとしても、前に進まなくてはいけない、と常は思いなおす。


「まずは自分で読んでみるよ。分からなかったら聞いてみる」


 常は少し無理をして微笑んだ。于は分かった、と言って自身の仕事をしに戻っていった。


 常が振り向くと、秋はすでに竹簡を束ねた書物を読み始めていた。麻も嫌そうな顔をしながらも木簡を読み始めている。

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