第17話 心の小さな火

「なかなか様になってるじゃないですか。どこからどう見ても門下生ですよ」


 沐浴を終え、雪雲閣の門下生の服装を身につけた常が建物の外へでると、居心地の悪そうな顔をした。冷が自分の姿を見て満足げな笑みを浮かべているためだ。


 今の常は淡青色の短衣たんいに真っ白な短袖の外套を重ね、雲母うんもの如き色の袴褶こしゅうを穿いている。この服装は常が普段身につけていた衣よりも丈夫であり、質も良いものだ。裾がほつれて汚れていたものを着ていた常からすると、単純に着慣れないのである。


 冷によって頭の高い位置で括られた髪も落ち着かない。頭を動かすと、髪が重みで大きく揺れるのだ。


「本当に? その顔、似合ってないと思ってるでしょ。こういうのを、人は衣裳により、馬は鞍によって引き立つって言うと聞いたよ?」


 常が不満げな表情をしたが、冷は笑みを浮かべたままだ。


「君には君らしい衣裳を、と私は思っているのですよ。それでですね、君はしばらくの間、此処、静虎殿せいこでんに住むことに決まりました。客用の家具や寝具などを運んでおきましたよ」


静虎殿せいこでんって何?」


 常が質問すると、冷が家具を運び入れながら答えた。


「この建物、白虎殿びゃっこどのの住まいのことですよ」


 常も運び入れるのを手伝いながら、冷の話を静かに聞く。静虎殿せいこでんの中には、必要最低限の物しか置かれていない。かろうじて、寝たり座するためのしょうが有るくらいだ。


「白虎殿が自ら、君を静虎殿に住まわせることを提案したのです。政主の命により、君が常院楼に閉じ込められていたことを知るのは雪雲閣でもごく一部です。雪雲閣に縁のある新入りの門下生である、と皆には説明されているのですよ。ですから特別に、静虎殿でともに暮らすこととしたのです。門下生の中で秘密を抱えて暮らすよりも、そのほうが君の気が楽だろう、と白虎殿はお考えなのでしょう」

 

「そうなの…… ええ?」


 荷物を運び終えた常は頭を抱えるようにして、自身の髪を両手でかき混ぜた。


「なんですかその反応は」


 驚きつつも、思わず笑ってしまったような冷の声色がした。常の髪がふわふわとしていて、何か小動物のように見えたのだ。


「だって、そんなことやっても、あの人の利にはならない」


 常が顔をあげて冷を見つめた。冷は微笑ましそうにしているが、常は至って真剣に考えていたのだ。あのとき助けてもらいたくはあったが、本当に助け出してもらえるなんて思っていなかった。だってそんなこと、秋にとっては利がなければ行う価値もないことだろう、と。


「白虎殿は利なんか無くても、”そんなこと”をする人ですよ。今までもそうでした。あの人はまっすぐで正しい。しかし、あの人が何を考えてるのかは私もよく分かりませんがね」


 ため息をついて、冷は苦笑いした。いろいろと思うところがあるのだろう。


 それを聞いて、常は数日間の記憶を思い返した。陣により木枠が壊れた音を聞いただけなのに、地下深くにある部屋に駆けつけてくれたのは他でもない秋であった。口は悪いが、今もこうやって常を自分の住まいに住まわせてくれようとしている。


 秋が他に届いていたらしい荷を両手で運びながら、静虎殿せいこでんに戻ってきた。


「沐浴は終わったのか」


 秋を出迎えるために、建物の外へ出てきた冷と常は頷いた。寒いので三人はすぐに静虎殿せいこでんの中に入り、秋は荷を下ろした。


「白虎殿、客用の家具を寝具を持ってきましたよ。そして、ほら見てください」


 冷が指し示した先には、雪雲閣を表す白い衣を着た常がいる。秋が冷の手を視線でなぞるようにして、常の姿を見た。


「なかなか様になってるな。どこからどう見ても門下生だ」


 秋のその言葉を聞いて、常は小さく笑った。


「冷さんと同じ事言ってる」


「…… あ?」


秋は眉間にしわを寄せた。よく分かっていない秋の様子を見て、常と冷は目配せをして笑った。


「いや、こちらの話ですよ。では白虎殿、私は他にも諸々の仕事がありますので失礼いたしますね」


 冷が颯爽と出て行き、口数の多い人間が居なくなると、なんともいえない静

寂に静虎殿が包まれた。


 二人で黙々と荷をほどくこと、数刻。時折秋の顔を伺っていた常が、意を決したように口を開いた。


「あの、白虎殿」


 その言葉を聞いて、秋がため息をついた。


「おまえまで白虎殿と呼ぶ必要は無い。今はおまえは門下生だからな、とりあえず師兄とでも呼んでおけ」


「師兄。あ、あの、ありがとう」


「…… 別に礼を言われることはしていないが」


 秋が首を小さく傾げた。


「あるよ……! あそこから僕を助けてくれたでしょ。それに、あそこにいた動く死体のうちの一人は、僕の…… 友だちを殺した奴だったんだ。だからね、ありがとうだよ」


 その言葉を聞いて秋は夜空色の目を見開き、そして目を伏せた。


「…… そうか」


 静虎殿を再び静寂が支配しかけたとき、常は口を開いた。


「僕の最初の友だちだったんだ。言葉を教えてくれた。暗い世界の外に色があることを教えてくれた。あの人がいなければ僕は外に出られなかったし、今こうやって師兄と話をすることさえもできなかったと思う。暗い闇に一筋の光明があり、それは外の空につながっていたんだ」


「…… でも僕は、あの人とともに外に出られなかった。彼は一緒に外に出たいと言ってくれたのに。僕に力があったなら、僕があそこに閉じ込められていなければ、僕が”厄災を招く子”でなければ…… 。つい、そう考えてしまう」


 言葉を紡ぐにつれて、常は涙声になっていった。手をきつく握り、微かに身体が震えている。


 それを見て、秋が呟くように言った。


「…… 後悔は誰にでもある」


 常が聞いた中で一番優しい秋の声だった。過去を懐かしむような、そんな声だった。


「その友人が教えてくれた世界の色を覚えていればいい。もう二度と会えなくとも」


 その言葉で、常の心に小さな火が灯ったような気がした。小さいけど温かくて、絶対に消えることのない火だ。


 その夜、常ははじめてゆっくりと眠ることができた。

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