第二章 白き雪の門

第15話 常河を遠く望む子

 一晩かけて山岳の中心にある雪雲閣に険しい道のりを超えて到着した一行であったが、冷が行う手続きの関係でしばし雪雲閣の門の外で待つこととなった。


 雪雲閣は、ぐるりと囲っている塀のせいで中はあまり見えないが、門の外と同様に雪が降り積もっているであろうことが分かった。


 車の中で待たされている少年は幽閉されたままの薄着であり、時折くしゃみをして震えている。見かねた秋が荷車に積んであった布を持ってきて少年の身体を何周も巻いた。


「苦しいんだけど」

「少しの間だけだ。我慢しろ。寒いよりは良いだろう」

 布を何重にも巻かれて身体の太さが二倍になった少年は、それを聞いておとなしく座っていた。手も身体と一緒に巻かれてしまったため、なにも出来ないのである。


 秋はやることがないのか、常の横で車の中で片ひざを立てて座っている。

 ただただ二人がぼうっと車の中を眺めてから一刻ほどが過ぎた。門下生たちの話す声が微かに聞こえてくる。


「おまえに名前はあるか?」

 秋はずっと静かに冷を待っていたが、少年に対して話しかけた。


「わからない」

 鄭蔚文には囚われの子や君とだけ呼ばれていたが、李紹成にも他の見張りにも名前で呼ばれたことはなかった。彼らは名前を知らなかったのだろう。


「呼ぶ時に不便だな。…… そうだ、常子远チャン・ズーユエンというのはどうだ? 常河を遠く望む子。常河はおまえには不吉かもしれないが、李氏が常河のほとりにおまえの生家があったと言っていたからな」


「え…… ?」

 少年は口を開けて固まっている。


 秋はその様子を見て二度ほど瞬きをしてから、恥ずかしくなったのか少年から切れ長の目をそらした。

「お前の名前だ。今考えた名だから、気に入らないならば勝手に別の名を名乗れ」


「常子远…… 。うん、常子远がいい」

 少年―― 常子远は、ぎこちないが屈託なく笑った。


「さて、本題だが。話す前に少し用意する物がある」

 そう言って秋は荷車のほうに向かい、何かを探しに行った。


 何を探しているのだろうか。牢にいた頃、用意された物に碌な思い出が無かった常子远は身を固くした。車の外を見るには垂れている布を上げなければいけないが、今は手が使えない。秋が外で何をしているのかが分からない。さらに、探しているであろう時間が異様に長く、何を持ってこようとしているのか不安だった。


 常子远がそんなことを思っているとは毛ほども知らずに戻ってきた秋が、無表情で畳まれた布を差しだした。


「おまえ、雪雲閣に入ったらすぐに沐浴をして服を替えろ。臭うぞ」

「な…… !仕方ないだろ!身体を洗える日は本当に少なかったんだ。虫が湧いてひどいんだぞ、かゆいし痛いし」


 秋が長い間荷車で探していたのは、身体を拭くための布だったようだ。心配して損した、という風に常子远は安堵しつつも、直接的な秋の言葉に少し苛立ったのだ。


 常院楼での幽閉生活は、決して衛生的であるとは言えなかった。しかし、それは常子远が望んだことではなかった。あのような衛生面が劣悪な環境で育ったが、少ない支給で工夫して身体をできるだけ清潔にしていたのだ。

 そして、牢からの脱出の際に秋も死体たちの体液を被ったはずなのに、知らぬうちに秋は沐浴したのか、小綺麗になっていたのも常が苛立った理由の一つだった。自分にも言ってほしかったのに、と思った。


「だから沐浴しろと言ってるんだろうが」

 秋がそう言うと、常子远は口をとがらせて独り言をぶつぶつと言っている。その姿をみて、呆れた様子で秋は腕を組んだ。


「まったく…… “厄災を招く子”が、こんなに口の減らない子どもだとはな」

「助けてくれたから良い人だと思ったのに、こんなにぶっきらぼうな大人だとは思わなかった!」


 常は舌を出して、布で巻かれた姿のまま器用に立ち上がった。そのまま出入り口に垂れている布を身体で押すようにして、車からひょいと下りていく。


 その様子を見て、ふ、と秋が息を漏らした。


 常と入れ違いになるようにして、冷が手続きを終えて、常に着せる為の替えの衣服を持ってきた。

「お待たせいたしました。手続きも終わり、君の服も用意してもらいましたよ」


車の中を覗くと少年の姿は忽然と消えていた。

「あれ? 白虎殿、あの子は?」

「あそこだ」


 秋が指さした先で、常子远は荷車の所で興味深そうに地面に積もった雪を眺めている。雪を見たことのない常にとっては、融ければ水となる白い物体というのは珍しいのだろう。


 見ていないうちに常が大量の布で身体を巻かれていたのが気になったが、冷は少年の好奇心旺盛な様子を見て一安心した。


 常は冷によって車の中に呼び戻され、一行は車ごと雪雲閣の門をくぐる。


 門の奥は常の想像していたよりも広かった。

 中心にある建物である静白殿へ続く長い道があり、道の周りは門下生や雪雲閣で働く者たちの居住地域となっている。一角には小さいながら食べ物を売る店や宿もあり、賑わいを見せている。


 人々は笠を被り、鳥の羽根を織り込んだ上着を羽織り、厚着をしていた。急に雪が降り出してもいいようにそのような格好をしているのである。雪雲閣は山の中にあるため自然が厳しいが、長い歴史の中で工夫しながら人々は生きてきたのであった。


 少し開けた場所を車で通ったときには、門下生と思われる子どもたちが十五人ほど、白い空の下で剣術の訓練をしているのが見えた。車が通るのを見るやいなや、子どもたちは訓練の手を止めて一行に対して拱手を行った。常は門下生たちが秋を敬っている様子をじっと見つめていた。


 静白殿へと到着すると、荷車を停めて門下生たちが荷ほどきを行い始めた。先に到着した書部の話を聞いたのか、留守番をしていた門下生たちが興味深そうにわらわらと集まってきていた。

 それを見届けると、秋と冷は常を乗せた車を白虎の住まいである静虎殿へと向かわせた。静虎殿で常を沐浴させるためだ。


 常に対して静虎殿や沐浴について一通り説明をした後に、秋は門下生の一人に常の護衛を頼んだ。そして秋は冷とともに静白殿に戻り、二人は政主が待つ中心の大広間へと向かうのだった。

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