第80話 陣の贄

 頬に手を当てて、季宗晨ジー・ゾンチェンが首を傾げた。空に浮かんでいる紫色の炎でできた陣の一部が、雲の灰色と濁るように溶けている。


「陣がうまく作動していないね。誰かが陣を壊したてきをたすけたのかな? どう思う、一睿イールイ


「……」


 今、秋一睿チウ・イールイは答えるどころではなかった。先程から剣を振っているが、一度も季宗晨ジー・ゾンチェンに当たらない。季宗晨ジー・ゾンチェンが視線を動かすだけで陣が出現し、剣先は見えない壁に遮られ、見えない鋭い刃が秋一睿チウ・イールイを襲う。手で陣を描くわけでも霊符を使うわけでもない。予備動作があるとすれば、季の目の動きくらいだ。


 秋一睿チウ・イールイの剣の癖が季に知られていることも大きかった。剣を一振りすればそれを阻まれ、もう一振りすれば見えない刃が身体を切り裂こうとする。


一睿イールイ。殺す気でかかってきなさい。いくら白虎きみにんげんを殺せなくとも、私の動きを制するくらいのことはしてもらわないと。この先、私のような人間が君を殺そうとしたとして、君は大人しく殺されるのかい?」


「師父、それは……そうですが」


 ためらっている秋に季が一歩近づいて、微笑んだ。


「安心して、一睿イールイ。もう剣を振れなくとも、私は君の剣術で殺される程度の人間じゃない。だって君の師だもの」


 吸いこまれてしまうような、溶けてしまいそうな血の赤が秋を捉えていた。 辺りには、秋の剣によるものなのか、白い雪が舞っている。人を操る紫色の炎に雷を起こす陣、そして季節外れの雪。それは異様な光景だった。


 秋は一歩下がって、息を吐き剣を握りなおした。そして、身体と剣の動きを水の流れるような曲線的な動きへと変貌させる。その動きは一見緩慢であるが、手と剣をしならせることで、目にも留まらぬ一手を繰り出す。


 この技こそが、師である季がその昔に考案した技、“桃英水落とうえいすいらく”であった。桃の花びらが水に落ちて揺蕩う様子のように緩やかな動きをするが、繰り出す剣の速さは”梅花雪落ばいかせつらく”に並ぶ。身体の動きと剣の動きに大きな差があるため、初見の相手は技を見切ることができない。


「桃英水落の再現、か」


 季が昔を懐かしむように呟いた。秋は、十年前に“桃英水落とうえいすいらく”を季から教えてもらっていない。数度見たことがあるだけで、本人から授けられる前に季が破門となったからだ。


「師父。私はあなたの背中をずっと追ってきたのです。そして、これからも追い続けるでしょう。私はあなたの弟子なのですから」


 秋の心からの言葉だった。秋の目元が一瞬泣き笑いするように歪んだが、すぐにいつもの険しい表情へと戻った。波のように緩やかに体勢を変え、剣を突き出した。黒い外套が、水のない水面を揺蕩う。


 突き出した剣先は季の喉元へと迫った。目にも留まらぬ剣の速さに、季は陣を展開できなかった。


「……君はすでに私を追い越しているとしても、まだ弟子を名乗るのかい?」


 秋は季の言葉に頷きもせず、無防備となった季の首を斬ろうともしない。季が破門されようとも、邪術を扱おうとも、何人もの人を殺そうとも、どんなに時間が経とうとも、秋が季の弟子でいるという決意は固いらしい。昔から、秋は一度決めたことに対して頑固であり、季が折れるほかなかった。


 仕方ないなという表情をしながら、季は秋を突き飛ばすようにして後ろへ下がり距離をとった。


「……ああ、やっと誰が陣を壊したか分かったよ。剣を使っていないから分かりにくかったけれど、青龍の翠葉斬すいようざん、それと銀糸かな? 銀糸の強度から考えるに、懿懿イーイーもこちらに居るようだね」


 先程、冷懿ラン・イーたちが協力して銀糸を作りだして拘束することで、紫色の炎に操られた人間のうち一人を無力化した。陣が消えかかっているのは、その影響だったらしい。


「しかし、陣を壊されてしまうのは困るな、復讐が完遂しない」


 季は全く困っていなさそうに言った。


「うん、ではこうしよう。懿懿イーイーは問題ないとは思うけれど、門下生たちの心を傷つけちゃうかもしれないな。もし、そうなったら休ませてあげてね」


 そして季はゆっくりと瞬きをして、空に向かって右手を上げた。袖が下がり、大きな傷のある掌と腕が顕となった。



 次の瞬間、冷懿ラン・イー温淵ウェン・ユエンの目の前で、銀糸で無力化された人間が破裂した。肉片が辺りに飛び散り、雨のように血が降ってくる。


「ひぃっ!?」


 温淵ウェン・ユエンが悲鳴をあげる。銀糸が強すぎたのかという不安げな表情をして、おろおろと助けを請うように冷懿ラン・イーの顔を見た。


「……」


 冷懿ラン・イーは門下生たちを守るように剣を構えて、珍しく険しそうな表情をした。先程人間が破裂したのは銀糸のせいではなく、雷光が槍のように地面を貫いたのだ。



 そして、季は何事もなかったかのように空を見上げて首を傾げた。


「これで一人殺せたかな? でも、この雷の陣は十人で作る陣なんだよね。……仕方ないから、私の身体を使おう」


 言葉を終えた途端、季の身体から、紫色の炎が立ち上る。


「師父? 何をしているのですか!」


 秋が季に向かって駆け出した。紫色の炎が立ちのぼったということは、季が陣の贄となることを指す。


「見れば分かるだろう、一睿イールイ。これでやっと自分を罰せる」

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