息つく暇なく、次の色彩がやってくる。


 今度のそれは、わすれなぐさを思わせる、ごく明るい青だった。


 軽やかな見た目の割に、運動は緩慢だ。

 粘性を持ったせいおんいきの遊子たちは、のったりと宙をたゆたう。


 重たげな青の中を、飛行機体は、泳ぐように進んでいった。


「ああ、後続も出発したねぇ」


 振り返ることができないの代わりに、が、えんたちの様子を教えてくれる。


「斜め右におうの機体が、その後ろにはくの機体が続いてる。……そろそろ、禁苑も錘宮も見えなくなるかな。天涯気流がじきに来る」


 果朶が返事をするより先に、ざあっと汽界が塗り替えられた。


 勿忘草に似た青の遊子は消え失せる。代わりに、冬の夜の闇のような、くらい紺色をした游子たちが、あたり一帯に広がっていた。


 荒々しくぶつかり合い、暴力的なまでに暴れているその游子は、ごうと唸りながら果朶の耳殻を侵食し、じわじわと脳髄を圧迫する。


 前後左右に機体が揺れる。

 操舵に問題はないはずだったが、ともすれば、機体がその場で止まってしまっているのではないかと思われるほどだった。


 隣にいる雨禾の声は、どこか遠く、透明な膜でも通しているかのように聞こえた。


「大丈夫、問題はなにもないよ。俺たちは、確かに前に進んでいる。游子の変わり目が迫ってきている。操舵を続けて」


 雨禾に言われて、果朶はようやく気が付いた。


 紺色の遊子の中に、りんこうをまとった白い游子が煌めいている。


 まるで、真珠のきらめきを凝縮したかのような清らかな輝きだ。

 彼らは、円形の軌道に沿ってくるくると回っている。


 あれらは、夜明けだ。


 陽の光を形づくる游子たちだ。


 そうと悟った瞬間に、生きている、とふと悟った。


 自分は、ここで生きている。


 天涯気流になぶられて乾いた喉を、ひたひたと、冷たい水が満たしていく。水はそのまま、果朶の内を下へと滑り落ちていく。声帯に沁み込んで、気管を通り、身体を形づくる游子の間を流れていく。


 どくり、と心臓が脈打った。

 刹那、澄みわたった冷たい水は、力強い循環をし始めた。


 果朶の体内を駆け巡り、瑞々しい活力を隅々まで漲らせ、骨の髄まで到達する。そして、これこそが生命だと、果朶の全身を揺さぶった。


 ──この世界に生まれ落ち、確かに息をしていると、これ以上なく知らされた。


 白い游子は、さらさらと果朶の周囲を流れていく。

 真珠のごとき燐光は、冬の夜の闇のような色の遊子を柔らかく照らし出し、果朶たちの背後へと連れ去った。


 夜明けは、来たのではなかった。


 進路が東を指していた。


 陽の光を形づくる游子たちは、天涯気流で冷えきった果朶の頬を、耳を、指先を、徐々に優しく温めた。


 游子の構造を細部まで分析し、しばらくは大気が安定していることを確認すると、果朶は焦点を元に戻す。



 ──果てしないへきてんが、視界いっぱいに広がった。



 遥か眼下に、天涯山の峰々が連なっている。


 昇ったばかりの朝陽に照らされた高峰は、くっきりとした陰影を生んでいた。

 木々の梢は、鮮やかなすいりょくしょくだ。


 森林地帯が遠ざかる。


 その先に、光降る大地が見える。




 ひかりふる、大地が見える。

 それは、瞳が映し出す未知の景色───








『四月二十日──……学院のしょうぼうによりますと、天気は晴れ。気温は高く、一日を通して穏やかな風が吹くでしょう。

 錘宮は、異邦探索室の飛行機体が、天涯山を超えることに成功したと発表しました。

 ……──任に当たったのは六名の技術官で、約四時間の飛行を経た後、全員が無事に帰還したとのよし──……』

 





 ──地歴九百二十二年。


 それは、錘の国がその後十数年にわたって歩んでいくことになる、飛行年間の元年である。




                                    〈了〉

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斯くて陽は昇る かささぎかづる @0707vw

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