13


「不思議なのだ。この世で最も死に近い場所なのに、果朶かだは、斎湖さいこにいると楽しそうに見えるのだ」


 華々げげもぼそりと付け足した。

「不思議なのだ。水を得た魚のように生き生きしている気がするのだ」


 果朶かだは微かに笑みを刷いた。

「ああ、それはそうかも。斎湖に立つと、『生きてる』って感じがするし」


 なにも、命の危険を通して生を実感できるとか、そんな酔狂な意味で言っているのではない。


 水気をはらんだ青くさい土のと、清々しくも静謐な綺羅きらじゅの香り。

 折れた枝が泥中でいちゅうで腐る、ぬるい臭気しゅうけ

 闇に隠れて活動している、蚯蚓みみずや蟹たちの生き物くささ。


 それらはすべて、岩壁に展開された立体都市では、味わうことのないものだ。

 大地に立って命の気配を吸い込むと、がらんとした満ち足りなさも、少しだけましになる。


 ──それに。


斎湖さいこを作っている游子ゆうしたちは、この上なく美しい」


 二人には聞こえないよう喉の奥で独り言ちて、果朶は今日も、焦点を置く場所を〈汽界きかい〉へと切り替えた。


〈汽界〉とは、目の前にあるものを、游子の形で見せてくれる世界のことだ。

 少なくとも、果朶は先生からそう教わった。


 世に存在するあらゆるものは、〈游子ゆうし〉と呼ばれる、小さな粒子から成り立っている。

 水も、風も、人も、木々も。

 核となる游子の周囲を、引き寄せられた他の游子が飛び交って、それらのまとまりが巧妙に組み合わさることでできている。


 中でも、斎湖を形作る游子たちは、散りばめられた星屑のようだった。


 足元を見下ろすと、銀に輝く粒子の群れがゆったりと蠢いている。

 ところどころは流れが速くて、そこは、特に踏み抜いてはならない箇所だと果朶には分かる。


 游子の流れが速いのは、互いの結び付きが弱まって、一つ一つが動きやすくなっているからだ。

 そのような構造の土は、足場とするには頼りない。


『虹彩に力を込めてみなさい』

 果朶が八歳になった時、先生はそう言った。

 先生と果朶の前には、夕陽を浴びて黄金に輝く禁苑きんえんの水田が広がっていた。

『汽界を臨める才能が、君にあるなら。白目や瞳孔ではなくて、虹彩だけを意識するのも、無理な注文ではないはずだ』

 穏やかな声で説明しながら、先生は、なにかを期待しているようでもあった。


 果朶はふと足を止めた。

 銀の游子の奥底に、なにか、黒っぽい游子の集まりが見えた気がした。


 綺羅きらしょう掘り用のつるはしは、泥中の綺羅晶を掻き出しやすくするために、切っ先が鉤型になっている。

 その鉤で、先ほどの黒い游子を掬ってやると、かつんと確かな手応えがあった。


 慈々じじの感嘆の声が聞こえた。


「果朶はやっぱり流石なのだ。斎湖に入って、五分も経っていないのに、もう綺羅晶を見付けているのだ」

「綺羅晶を見付けているのだ。僕たちには真似できない芸当なのだ」


 果朶は虹彩に込めていた力を抜いた。

 つるはしの先端に、手のひらほどの塊が引っ掛かっていた。


 指先で泥を拭えば、青みがかった綺羅晶が姿を現す。ひんやりと冷たくて、けれども軽い。綺羅晶は、軽ければ軽いほど質がいい。


 果朶は首を横に振った。

「そんな大層なもんじゃないよ。俺のは単なる反則技」


 華々げげたちは、果朶が予科生よかせいだったことはおろか、汽界を見られることも知らない。

 まさか、土を形作っている游子たちの隙間から、綺羅晶を構成する游子を透かし見ているのだと、考えたこともないだろう。


 組合に集められた綺羅晶は、学院に卸される。そして、游子の研究に使われる。


 綺羅晶を砕いて燃やすと、晶汽しょうきと呼ばれる特殊な粒子が発生する。晶汽しょうきを使って特定の游子構造を模倣すると、その運動がおのずから再現された。


 要するに、炎をつくっている游子の構造を晶汽でもってなぞらえれば、火種がなくとも熱を発生させられる、という代物なのだ。


 その貴重な綺羅晶を、錘宮が欲していると、彗翅すいしはいう。


『断った方がいいよ、えんじゅ


 彗翅の要求を聞いた果朶は、そそくさと席を立った。厄介ごとの気配がしたからだ。


『密かに融通して欲しい、って言ったよね? それって、学院にも知られたくないってことでしょ。この子の背後に誰がいるのか知らないけど、英知の結集を相手にこそこそしないといけないなんて、穏やかじゃあない。君子危うきに近寄らずだよ』


 厭朱えんじゅはただただ、苦々しい表情を浮かべて長煙管をふかしていた。


 手提げ金庫を重くすることにご執心の厭朱だが、危ない橋を渡りたがる性分ではない。たとえ、彗翅が高額な報酬金額を提示しても、果朶の警告を聞いた以上は首を縦に振らないだろう。


 そう踏んでいた果朶はこの時、最年少で一等書記官となった彗翅の手管を、まだまだ見くびっていたのだった。



 寝不足の頭が鈍く痛む。


 いらだちと疲労に侵されて、果朶はぐったり呟いた。


「だっからさぁ……なんっであんたが、ここにいるわけ?」


 少女が圏椅いすに座っている。

 胸元を緩めた薄衣姿の娼婦たちに囲まれて、朗らかに微笑んでいる。


「厭朱さんにお聞きしました! 果朶さまは、お仕事が終わったら決まってこちらに立ち寄って、ご友人と合流されると。眠そうな表情もお美しいです! 私と結婚しませんか?」


 きゃあっ、と。


 猫ののような歓声が上がった。

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